続日本100名城 (192) 角牟礼城(つのむれじょう)






角牟礼城は大分県玖珠郡玖珠町の角埋山(つのむれやま)に築かれた山城で、 国の史跡に指定されている。 

「 玖珠盆地は平安時代から玖珠郡衆によって支配されていたが、 標高五百七十六メートルの角埋山は三方を急峻な斜面で囲まれた天然の要害で、 豊後国から豊前国に抜ける交通の要衝にあることから、 玖珠郡衆の森三郎朝通が弘安年間(1278〜1288)に角牟礼城を築いたとされる。  戦国時代に入り、豊前の大内氏と豊後の大友氏との争いを背景により堅固に補強された。  天正十四年(1586)の島津義弘による豊後侵攻の折には玖珠郡衆が籠城したが、 島津軍の攻撃にも落城することはなく、難攻不落の城として名を高めた。  当時の城は角埋山の頂上の本丸から下に二ノ丸、三ノ丸の順に配置され、 土塁で囲まれた曲輪や竪掘のある中世の山城だった。 
文禄三年(1594)に日田・玖珠を統治した毛利高政は数年をかけて、 織豊系の築城技術を取り入れて、 二の丸、三の丸を中心に高石垣(穴太積み)で防御する近世城郭に改修した。  慶長六年(1601)、毛利高政は佐伯に転封になり、来島康親が入封し、 豊後森藩が立藩されると、山麓に陣屋が置かれた。  二代藩主、通春の代、来島から久留島に改名したが、、 久留島氏は城主の格式を持たなかったため、山城の角牟礼城は廃城処分になり、 その後は御留山として管理され、明治維新を迎えた。 」 

現在、三島公園になっているところが久留島氏の陣屋跡で、 旧藩主御殿庭園など三つの庭園は国の名勝に指定されている。 
山城の角牟礼城二の丸や三の丸には穴太積みと呼ばれる古い野面積みの石垣が残っている。 

二の丸西曲輪
     三の丸曲輪跡      久留島氏陣屋跡
二の丸西曲輪跡
三の丸曲輪跡
久留島氏陣屋跡




角牟礼城の訪問記は、 古城めぐり 大分の城4「角牟礼城」にあるので、ご覧ください。

所在地:大分県玖珠郡玖珠町森   
角牟礼城の三の丸へは大分自動車道玖珠ICより国道387号経由で車で15分  
JR久大本線豊後森駅から徒歩で約1時間30分、三の丸。 三の丸駐車場から本丸までゆっくり往復 30分 
角牟礼城のスタンプは麓の三島公園(久留島氏陣屋跡)のわらべ館内「豊後森藩資料館(9時〜17時 月休、12/28-1/4休)」にて 



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かうんたぁ。