続日本100名城第190番 八代城





八代城は熊本県八代市に築かれた平城で、別名、松江城である。 
平成二十六年(2014)、八代城跡は前身の古麓城、麦島城とともに、 八代城跡群として国の史跡に指定された。 

「 元和五年(1619)の大地震により、麦島城が倒壊したため、 加藤清正の子、忠広は江戸幕府の許可を得て、 家臣の加藤正方により、前川の北岸、松江の徳渕の近くに築城を開始、 元和八年(1622)に竣工した城である。 
築城時は本丸の北西隅に四重五階の大天守と二重二階の小天守、 七棟の櫓をはじめとする建物が建ち、 麦島城時代に認められた一国二城体制は継続された。 
寛永九年(1632)、加藤氏が改易されると、細川忠利が熊本藩主となり、 忠利の父、細川忠興(三斎)が八代城の北の丸を隠居所とした。
忠興は四男の立孝を本丸に住まわせ、 いずれ自分の隠居料九万五千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、 正保二年(1645)、立孝は若くして没し、忠興も同年十二月に没した。 
忠興が没した後は細川家の筆頭家老で、 徳川将軍直臣の身分も持つ松井興長が八代藩三万石の城主となり、 以降、明治維新まで松井氏の居城となった。 」

八代城はJR八代駅の西北西二キロの八代市役所の西側にあり、 周囲を約二百メートルの水堀と石垣が囲んでいる。 
石垣に石灰岩が用いられ、その色から別名「白鷺城」とも呼ばれる。 
寛文十二年(1672)の落雷により天守、櫓、長塀を焼失。 
寛政九年(1797)には落雷により本丸大書院、三階櫓等を焼失したが、 大書院は再建されるが、天守や櫓は再建されなかった。  明治三年(1870)に廃城になった。」 

現在、本丸跡は現在八代城跡公園になっていて、本丸を囲む水掘が残り、 本丸北西角には東西十間南北十一間の大きさで、五層六階の大天守が建っていた場所に 天守台が残っている。 
明治十三年(1880)、本丸跡に南朝の征西将軍懐良親王、 良成親王を祀る八代の社殿が本丸御殿跡に建立され、 八代宮正面(南側)入口は神社創設時に八代宮の参道として、 月見櫓と舞台脇櫓の間の石垣を取り壊して造られたものである。 

「 江戸時代の八代城の正門は本丸の東側に欄干橋と高麗門を有した 表枡形門が建っていて、北側には廊下橋の架かる裏枡形門があった。 
八代宮の橋にある擬宝珠はその姿を再現したものである。 」 

本丸跡を北にでると、松井神社がある。 
左(西)に向うと、八代城の別名、松江城を冠した「松江城町」の交叉点があり、 その先に城主の御茶屋である松浜軒が現存している。 
八代城跡には石垣と水堀、天守台と石垣のみが残り、建物遺構は残っていない。 
加藤忠正の菩提寺、本成寺に本丸にあった高麗門が移築されていて、 春光寺には永御蔵(米蔵)の薬医門と番所が移築復元されている。 

八代城跡の様子は、このページ 古城めぐり 八代城を、ご覧ください。


大天守石垣と水堀
     八代宮      松浜軒
大天守石垣と水堀
懐良親王を祀った八代宮
城主の御茶屋松浜軒



所在地:熊本県八代市松江城町7−34 
鹿児島本線八代駅からバスで10分、八代宮前で下車、すぐ  
続日本100名城 八代城のスタンプは城址公園の西方の市立博物館未来の森ミュージアム(松浜軒の対面)にある。 
八代市立博物館未来の森ミュージアム  (0965-35-2448 9時〜17時 入館は16時30分まで 月休 年末年始休)  
なお、市立博物館には八代城の城郭模型が展示されている。 



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かうんたぁ。