続日本100名城 (189) 鞠智城(きくちじょう)






鞠智城は熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる台地状の丘陵に築かれた古代山城(朝鮮式山城)で、 平成十六年(2004)には国の史跡に指定された。 。 

「 鞠智城は、白村江(はくすきのえ)の戦いで、 唐と新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)が日本への侵攻に備え、 西日本各地に築いた城の一つである。  なお、続日本紀文武天皇二年(698)に、「 大宰府をして、 大野、基肄、鞠智の三城(みつのき)を繕治せしむ 」と、記載されているが、 築城年は不明である。  築城当初は大宰府と連動した軍事施設として、 大野城、基肄城等とともに北部九州の防衛拠点であり、 兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどであったと考えられる。 
興隆期(七世紀末の律令制の導入時)には軍事施設に加えて、食料の備蓄施設の拠点になり、 役所機能のある肥後北部の拠点に改修され、 南九州支配の拠点などの役割や機能などが与えられた。 
八世紀の終わりになると、鞠智城の機能が大きく変わり、 食糧等の貯蔵施設としての役割が大きくなり、太宰府との関連は認められず、 在地との関係が強くなっているように思われる。 
九世紀の終わりになると、大型の倉庫群が建ち並ぶ貯蔵施設としての機能が役割の中心であった、 と考えられ、十世紀中頃までは約三百年続いた鞠智城は廃城となった。 」  

鞠智城跡は県営の歴史公園になっていて、城跡に建つ温故創生館では展示や映像により、 鞠智城の歴史や構造について、詳しく説明している。 

「 鞠智城は大宰府の南約六十二キロに位置する標高約九十メートル〜百七十一メートルの米原台地上にあり、 城壁の周長は自然地形の崖を含めて約三・五キロ、城の面積は約五十五ヘクタールである。 
ここは有明海に注ぐ菊池川の河口の東北東約三十キロの内陸部で、流域は肥沃な平野が広がる。 
また、城の南側は古代官道が通る交通の要衝にあった。 」

温故創生館の手前にある長者館は地場物産館である。 
また、温故創生館の先にある銅像は、温故創生之碑といわれるもので、平成八年に造られた。  正面の中央に防人、前面に防人の妻子、西側に築城を指導したとされる百済の貴族、 東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側に一対の鳳凰が立っている。  台座には万葉集から防人の歌と鞠智城の歴史を解説した六枚のレリーフが貼られている。

長者館
     温故創生之碑(正面)      温故創生之碑(西側)
長者館(地場物産館)
温故創生之碑(正面)
温故創生之碑(西側)




発掘調査では国内の古代山城で唯一の八角形建物跡二棟など、 合計七十二棟の建物跡が発見され、三か所の城門跡、土塁、水門、貯水池など、 当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見されている。  
右手の駐車場の先に八角形の鼓楼が建っていて、その手前には柱状のものがある。

「八角形鼓楼」
「 鞠智城では、国内の古代山城では似かよった例を見ない、四基の八角形建物跡が見つかっています。  韓国の二聖(イーソン)山城でも同じものがあり、注目されます。  特別な性格の施設であったことをうかがわせる、八角形という特殊な形であったことから、 「鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元しました。  復元した「八角形鼓楼」は、高さ15.8mで、重さ約76トンの瓦が載る建物です。  一帯に響いた古代の鼓の音、遠く故郷を離れた防人たちの姿を感じてみてはいかがですか。 」

その奥にあるのは米倉で、手前の柱石群は、発掘時の柱跡である。 

「鞠智城の食糧倉庫 米倉」
「 鞠智城では、石を規則正しく並べて土台にした、21棟の礎石建物跡が見つかっています。  その中の一棟の建物跡を、重い荷物に耐える造りであり、 かつ周りから大量の炭化した米が見つかったことから、 食料である米を蓄えるための「米倉」として復元しました。  復元した「米倉」は、長さ7.2m、幅9.6mの3間X4間の建物です。  湿気を防ぐための校倉造り、ねずみの害を防ぐための「ねずみ返し」など、 古代の人々のすばらしい知恵を感じてみてはいかがですか。 」

「ねずみ返し」は、右下写真の赤字で囲まれた部分である。 
木を張り出させて、ねずみが登れなくしていた。 

八角形鼓楼
     米倉      ねずみ返し
八角形鼓楼
米倉
ねずみ返し




米倉の右手奥にあるのは兵舎である。

「防人の住まい 兵舎」
「 平成2年度の第12次調査で発見された側柱のみの掘立柱建物跡です。  3間X10間の規模で、大型の建物に属します。  柱径は30cm程度です。 同規模の建物群が2基並んでいるうちの1基を復元しました。 
構造は、間口8.0m、奥行き26.8mで、土間面積は213.6m。  屋根までの高さは6.3m。 茅葺き屋根で、3枚の厚板を重ね合わせて葺かれています。  壁は土壁で、突き上げ窓がついています。 
防人(さきもり)と呼ばれた兵士が寝起きしていた「かまぼこ製の兵舎」です。  建物規模から、50人程の兵士が生活していたと考えられます。 」 

その先に建つのは板倉である。 

「戦いに備えた 板倉」
「 鞠智城跡では、柱穴を建物の内側まで配置した、総柱の掘立柱建物群が見つかっています。  その中の1棟の建物跡を、荷物を保管するための高床の造りであり、 防人たちが生活していた「兵舎」の近くにあったことから、 武器や武具などを保管するための倉庫として復元し、「板倉」と呼びました。 
復元した「板倉」は、長さ6.9m、幅12.0m の 3間X4間の建物です。  茅葺の屋根、側柱に彫った溝に板を落し込んで壁を造る「落しはめ技法」など、 今日ではなかなか見かけない古代の技を感じていかがですか。」

板倉の右手には宮野礎石群がある。 

「宮野礎石」
「 鞠智城の中で、一番大規模な礎石建物で、3間(7.2m)X9間(21.6m)の規模を誇ります。  「長倉(ちょうぞう)」と呼ばれる倉庫だったと、考えられています。  当時の礎石をそのままの姿で復元しています。 」

兵舎
     板倉      宮野礎石群
兵舎
板倉
宮野礎石群




その先は小高い丘になっている。 
宮野礎石群の後ろの道を右に登っていくと、 両側の丘の間に道が続き、その上に橋が架けられている。 
橋の下の道は丘を削って造った切り通しの道である。 
左側階段を上ると左側の丘に建物が見えるが、この山は長者山で、展望広場休憩所である。 

「展望広場休憩所」
「 南側への展望が抜群の小高い長者山の頂上に建てられた休憩所です。  古代建物の意匠を採り入れたもので、復元建物ではありませんが、 鞠智城時代と同じ時代の建築技法に触れることができます。  また、鞠智城跡の映像解説ビデオを見ることができます。 」

右側の階段を上っていくが、けっこう急である。 
距離は短いので、途中で息を継ぎ進むと、灰塚に到着した。
突端には金属製の展望デッキが設けられている。 

「展望デッキ」
「 城内の全貌はもちろん、周囲の雄大な風景を一望できるデッキである。  天気の良い日は、遥か遠くに長崎普賢岳を見ることができます。 」

灰塚と頂上に方位と見える風景の表示がある。 
灰塚の西側には涼みヶ御所や西側土塁があるが、 そちらは樹木で見えなくなっていて、どのへんか、確認は出来なかった。

「 西側土塁にはワクド石がある。 横から見ると、蛙そっくりに見えることから、 その名で呼ばれています。 昔から地元の人の信仰の対象になっていたようです。 」

登り坂
     展望広場休憩所      展望広場休憩所
登り坂
長者山展望広場休憩所
灰塚




所在地:熊本県山鹿市菊鹿町米原443−1  
JR熊本駅から菊池プラザ行きで熊本交通ターミナル経由で約80分、菊池プラザで下車、タクシーで約5分
熊本空港から車で約40分

鞠智城のスタンプは、歴史公園鞠智城・温故創生館の受付にある  

温故創生館 : 山鹿市菊鹿町米原443−1 0968−48−3178 
         9時〜17時45分 (受付は16時45分まで) 月休、年末年始休


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かうんたぁ。