続日本100名城第188番 原城(はらじょう・はるのじょう)






原城は島原半島南東部の有明海に面した丘陵に、本丸、二の丸、三の丸、鳩丸出丸、 天草丸などの曲輪で構成した梯郭式城郭であった。 

「 原城は、別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城とも呼ばれ、 キリシタン大名の有馬晴信により、本城の日野江城の支城として、 慶長六年(1604)に築かれた平城で、城下にキリシタンの布教施設が置かれ、 外国貿易により繁栄した。 
慶長十七年(1612)の有馬晴信の失脚後、慶長十九年(1614)、晴信の子、 直純は日向延岡へ転封となり、代わって入封した松倉重政は元和二年(1616)、 島原に築城したため、一国一城令により、原城は日野江城と共に廃城となった。 
寛永十四年(1637)、重政の子、松倉勝家の圧政にあえぐ農民やキリシタンらが蜂起し、 島原天草の乱が起き、益田四郎時貞以下、 一揆勢が廃城になっていた原城に立て籠もり戦ったが、 翌年四月、鎮圧され、幕府軍は乱の終結後、 原城が再び一揆の拠点として使用されることのないよう残存する石塁などを徹底的に破壊した。 」 

本丸は約八千uと広大で、ピストルのような形をし、数段の曲輪からなり、 下から上に上がっていくような縄張で、上段は長方形で一番大きかった。 
本丸の守りを固めるため、本丸北西側に枡形が連続する複雑で巨大な出入口(虎口)が設けられていた。 

「 本丸正門跡では平成十六年度の発掘調査で、八基の巨大な礎石や水路、階段が発見された。 
礎石はその配列からも門の礎石であることが確認された。  また、門跡は一揆直後に破壊された大量の石垣石材により埋め尽くされていた。  正門跡の調査では瓦、陶磁器、人骨も大量に出土した、という。 」

本丸は石垣で囲まれ、本丸の左側は一面蓮池で覆われ、 本丸の正面は空掘を造り守る縄張になっていた。 

「 原城で石垣が使われたのは本丸だけで、その他の曲輪は土塁である。 
本丸の石垣はゆるやかな勾配で直線的に積み上げられている。 
石垣の目地を横方向へ通そうとする意図が見られるが、石材が規格的でないため、必ずしも徹底していない。 
石垣の積み石(築石)には粗割石や自然石が使われ、割面や自然石の比較的平坦面を石垣の表面になるように積まれている。  こうした積み方は近世初頭の城郭石垣の特徴をよく示している。 」

蓮池跡は畔がある区画になっていたので、後世の人が田畑などで使用していたのではないかと思った。 

本丸正門跡
     本丸石垣      蓮池跡
本丸正門跡本丸石垣蓮池跡



その先には「埋門跡」の説明板があり、その左に石垣の裏粟石がかき込まれた状態で再現されていた。 

説明板「埋門跡」  
「 原城に入って中程に位置する二つ目の門跡。 文字史料には埋門と記されている。 
一揆の後、幕府軍によって壊され、埋め立てられていたが、 発掘調査で土砂や壊されていた石垣の石材を取り除いていくと本来の石垣や階段、水路の跡などが確認された。 」 

本丸の右上の下に発掘で出土した石垣の残骸が集められていた。 
さらに進むと「本丸門跡」の説明板があった。 

説明板「本丸門跡」  
 「 原城本丸へつながる最後の門である。  入口の空間へ入ると建物の基礎となる礎石が並んでおり、櫓門が建っていたと考えられる。  楼門を抜けるとその先に階段が設けられており、城内に続く他の門跡と同様に一揆後に壊され、 礎石の一部がなくなっており、階段の礎石はわずかしか残っていません。 」  

埋門跡
     石垣の残骸      本丸門跡
埋門跡発掘された石垣の残骸本丸門跡



本丸門跡の先には「本丸跡」の大きな案内板があり、その奥(本丸西中央隅)には「櫓台跡(天守台跡)」の説明板がある。 

説明板「櫓台跡(天守台跡)」  
「 ここでは発掘調査で大きく張り出した石垣の跡が発見されました。  調査時には石垣の上部や隅が大きく破壊され、土砂や石垣の石材で埋め尽くされていました。  宣教師が残した報告書には三層の櫓が建てられていたことが記されており、 築城された時にはこの場所に天守相当の建物があったと推定しています。 」 
説明板「破却された石垣」  
「 この場所は石垣の内隅部にあたります。  内隅とは石垣が内側に入り込んだ隅角のことです。  ここでは島原・天草一揆後に破壊された状態を展示しています。 
石垣は元は逆L字状に築かれ、その石垣は残っている。  その左側に崩された石垣の石材がつみ重なっていて、 それを囲む石垣がその左に築かれているが、 内隅が壊された後の耕地整理時に築かれたもので、 天保七年(1836)の絵図にはすでに描かれて いる。 江戸時代中期以降は農地として使用されたことを示すものである。 」

左側には広い空地が広がっているが、多くの樹木が茂り、「原城跡」の石碑が建っていた。 

櫓台跡
     破却された石垣      原城跡石碑
櫓台跡(天守台跡)破却された石垣原城跡石碑



その左側には十字の建造物があり、その手前に「天草四郎時貞」の墓碑があり、 「○保○年天草四郎時○ ○○二月廿八○丑」と刻まれている。 
この墓碑は西有家町の民家石垣の中にあったものを移築したもので、○は欠損している文字である。

「 島原・天草の乱後の幕府軍の反乱軍への処断は苛烈を極め、 老若男女約三万七千人はすべて首を討たれたとされ、 生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人だったと言われる。    虐殺された一揆軍三万七千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められたが、 天草四郎ら首謀者の首は長崎出島のポルトガル商館前に晒された。 」 

その近くに「佐分利九之丞」の墓がある。

「 佐分利九之丞は、幕府の要請を受け、鳥取藩八十八名を率いて参陣していたが、 本丸付近にて討死した。 この功績により子孫は千石が加増されたといわれる。 」

本丸を降りると「池尻口門跡」の石柱があり、 「 原城本丸に入る三ヶ所の門のひとつで、 発掘調査で門と思える礎石や両側の石垣、階段などが発見されたが、 島原・天草一揆後に幕府軍に壊されて、 石垣は最大一・七メートル程しか残っていない。 」 とあった。 
二の丸跡や三の丸は赤茶けた土地をむきだしと広大に広がっている。  その中に「板倉重昌碑」のみが建っている。 

天草四郎時貞の墓碑
     左分利九之判官の供養塔      池尻口門跡
天草四郎時貞の墓碑左分利九之判官の供養塔池尻口門跡



所在地:長崎県南島原市南有馬町大江、浦田  
島原鉄道諫早駅から1時間10分、島原駅下車、島鉄バスに乗り換え、約65分、 原城前下車、徒歩約15分 
原城へは島鉄バスの原城前バス停から徒歩15分だが、電車やバスは本数が少ないので、 レンタカーなどが良い選択となるだろう。  長崎空港からレンタカーで、約90分である。 
駐車場は原城温泉真砂の隣に大手口駐車場があるので、 そこに駐車すると本丸跡まで連絡バスが出ている。 
原城のスタンプは本丸跡に設けられた原城総合案内所「9時30分〜16時30分 
あるいは有馬キリシタン遺産記念館(0957−85−3217 9時〜18時 木休) で 




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かうんたぁ。