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本丸正門跡 | 本丸石垣 | 蓮池跡 |
その先には「埋門跡」の説明板があり、その左に石垣の裏粟石がかき込まれた状態で再現されていた。
説明板「埋門跡」
「 原城に入って中程に位置する二つ目の門跡。 文字史料には埋門と記されている。
一揆の後、幕府軍によって壊され、埋め立てられていたが、
発掘調査で土砂や壊されていた石垣の石材を取り除いていくと本来の石垣や階段、水路の跡などが確認された。 」
本丸の右上の下に発掘で出土した石垣の残骸が集められていた。
さらに進むと「本丸門跡」の説明板があった。
説明板「本丸門跡」
「 原城本丸へつながる最後の門である。
入口の空間へ入ると建物の基礎となる礎石が並んでおり、櫓門が建っていたと考えられる。
楼門を抜けるとその先に階段が設けられており、城内に続く他の門跡と同様に一揆後に壊され、
礎石の一部がなくなっており、階段の礎石はわずかしか残っていません。 」
埋門跡 | 発掘された石垣の残骸 | 本丸門跡 |
本丸門跡の先には「本丸跡」の大きな案内板があり、その奥(本丸西中央隅)には「櫓台跡(天守台跡)」の説明板がある。
説明板「櫓台跡(天守台跡)」
「 ここでは発掘調査で大きく張り出した石垣の跡が発見されました。
調査時には石垣の上部や隅が大きく破壊され、土砂や石垣の石材で埋め尽くされていました。
宣教師が残した報告書には三層の櫓が建てられていたことが記されており、
築城された時にはこの場所に天守相当の建物があったと推定しています。 」
説明板「破却された石垣」
「 この場所は石垣の内隅部にあたります。
内隅とは石垣が内側に入り込んだ隅角のことです。
ここでは島原・天草一揆後に破壊された状態を展示しています。
石垣は元は逆L字状に築かれ、その石垣は残っている。
その左側に崩された石垣の石材がつみ重なっていて、
それを囲む石垣がその左に築かれているが、
内隅が壊された後の耕地整理時に築かれたもので、
天保七年(1836)の絵図にはすでに描かれて
いる。 江戸時代中期以降は農地として使用されたことを示すものである。 」
左側には広い空地が広がっているが、多くの樹木が茂り、「原城跡」の石碑が建っていた。
櫓台跡(天守台跡) | 破却された石垣 | 原城跡石碑 |
その左側には十字の建造物があり、その手前に「天草四郎時貞」の墓碑があり、
「○保○年天草四郎時○ ○○二月廿八○丑」と刻まれている。
この墓碑は西有家町の民家石垣の中にあったものを移築したもので、○は欠損している文字である。
「 島原・天草の乱後の幕府軍の反乱軍への処断は苛烈を極め、 老若男女約三万七千人はすべて首を討たれたとされ、 生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人だったと言われる。 虐殺された一揆軍三万七千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められたが、 天草四郎ら首謀者の首は長崎出島のポルトガル商館前に晒された。 」
その近くに「佐分利九之丞」の墓がある。
「 佐分利九之丞は、幕府の要請を受け、鳥取藩八十八名を率いて参陣していたが、 本丸付近にて討死した。 この功績により子孫は千石が加増されたといわれる。 」
本丸を降りると「池尻口門跡」の石柱があり、
「 原城本丸に入る三ヶ所の門のひとつで、
発掘調査で門と思える礎石や両側の石垣、階段などが発見されたが、
島原・天草一揆後に幕府軍に壊されて、
石垣は最大一・七メートル程しか残っていない。 」 とあった。
二の丸跡や三の丸は赤茶けた土地をむきだしと広大に広がっている。
その中に「板倉重昌碑」のみが建っている。
天草四郎時貞の墓碑 | 左分利九之判官の供養塔 | 池尻口門跡 |
所在地:長崎県南島原市南有馬町大江、浦田
島原鉄道諫早駅から1時間10分、島原駅下車、島鉄バスに乗り換え、約65分、
原城前下車、徒歩約15分
原城へは島鉄バスの原城前バス停から徒歩15分だが、電車やバスは本数が少ないので、
レンタカーなどが良い選択となるだろう。
長崎空港からレンタカーで、約90分である。
駐車場は原城温泉真砂の隣に大手口駐車場があるので、
そこに駐車すると本丸跡まで連絡バスが出ている。
原城のスタンプは本丸跡に設けられた原城総合案内所「9時30分〜16時30分
あるいは有馬キリシタン遺産記念館(0957−85−3217 9時〜18時 木休) で