続日本100名城 (187) 福江城(ふくえじょう)
福江城は石田城ともいい、長崎県五島市池田町にあった平城である。
「 福江藩の五島氏は五島列島を領地とし、一万五千石の城持大名で、
江川城を居城としていたが、
慶長十九年(1614)に焼失させ、寛永十四年(1637)に石田陣屋を藩庁にした。
五島氏は築城を幕府に願い続けたが、藩の財政難もありなかなか実現しなかった。
幕末の嘉永二年(1849)、弟十代藩主盛成は幕府から異国船を監視、
海上防衛に備えるとの目的で築城の許可を得て築城を開始。
海城の築城には財政難や海沿い特有の問題もあり、完成までに十四年の歳月をへて 、
福江藩最後の藩主、十一代藩主盛徳が文久三年(1863)に竣工した。
江戸幕府最後に築かれた我が国で最も新しい城だが、まもなく明治維新となり、
築城九年にして解体された。 」
福江城跡は五島市の中心街にあるが、築城当時は城壁の三方を海に囲まれた海城だった。
「 城郭は東西二百九十一メートル、周囲千三百四十六メートルで、
本丸、二ノ丸、北ノ丸からなり、内堀、外堀がめぐらされた。
天守はなかったが、本丸の二重櫓がその代用とされた。
城壁には矢を放つためと監視用に作られた三角の矢狭間があり、
広角に攻められるように外に向かって開いているのが特徴である。
幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えるため、城内には台場(砲台)が設けられているなど、
同時期に造られた蝦夷の松前城とともに幕末の城郭として貴重なものである。 」
城の裏門である蹴出門(けだしもん)は部品や木材の交換を重ねながらも現存する。
また、土塀の一部や石橋も現存している。
自然石を積み上げ、野面積み工法を多用している石垣も当時の面影を残している。
本丸跡は長崎県立五島高等学校、北の丸跡は五島観光歴史資料館や五島市立図書館、
五島市福江文化会館が建てられた。
二の丸跡の五島氏庭園は国の名勝に指定されている。
「 五島氏庭園は鹿苑寺(金閣寺)を模した林泉式庭園という回遊式の庭園で、
京都の僧、善章により造られたもので、
安政五年(1858)から二年の歳月をかけ、盛成の隠居所として造られた。
庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いた特徴的なものである。
植栽にビンロウジュ、ソテツ、オオタニワタリ、キンモクセイなど南方の植物を配している点も特徴である。
心の文字をかたどった池は心字が池と呼ばれている。 」
所在地:長崎県五島市池田町1−2
長崎空港から福江空港
博多港から野母商船23時45分発で福江港8時15分着
福江港から徒歩10分
福江城のスタンプは福江城五島氏庭園で。 休園日は五島観光資料館にて
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