続日本100名城 (184) 基肄城(きいじょう)
基肄城は福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた古代山城(朝鮮式山城)で、
城跡は昭和二十九年(1954)に国の特別史跡に指定された。
「 基肄城は白村江の戦いで、唐、新羅連合軍に大敗した後、
大和朝廷が国を防衛するため、築いた古代山城である。
日本書紀には天智天皇四年(665)に大野城とともに築いたと記されている。
城郭の建設を担当したのは亡命百済人で、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。 」
基肄城は大宰府の南方八キロに位置する標高四百四メートルの基山の三ヶ所の谷を囲み、
その東峰(三百二十七メートル)にかけて約三・九キロの城壁を廻らせた山城である。
築城当時、山麓には大宰府から南下する官道が通り、
基肄駅(きいのうまや)で築後方面と肥後方面に分岐していたので、交通の要衝にあった。
城跡見学の玄関口は南門である。
高原川を横切る南門と一連の水門石垣には土塁とともに基肄城を代表する水門遺構があり、
通水口は国内最大級である。 なお、南門跡石垣と水門が復元され、説明板が建てられている。
そこから基山までは比高約二百二十メートルで、見学用歩道がある。
草スキー場の東の山頂に土塁が残っていて、展望台があり、基肄城跡の石碑と由来碑が建てられている。
城壁はほとんどが尾根を廻る土塁であるが、谷部は石塁で塞いでいる。
また、展望台から北側の博多湾、南側の久留米市や有明海、東側の筑紫野市や朝倉市方面、
西側の背振の山並みを一望することができる。
東北門は城の東方部に連なる土塁(幅6m、高さ3m)を幅2.7m程切り割って造られた門である。
門の基礎部分には左右両端に門礎(門柱の基礎石)が残っており、
各々に円形に彫られた門扉の軸穴と掘立柱をすえるためのえぐり込みが見られる。
近世には、水門跡(南門跡)側からこの門跡を通過して萩原(筑前領)へ向かう近道として利用されており、
萩原越えと呼ばれていた。
いものがんぎは、中世頃に山城として再び利用された際、
基山頂上の土塁線の一部を四つに切り割って造られた堀切である。
形状が芋畑の畝に似ていることから、いもがんぎと呼ばれている。
この遺跡の南側にある台形状の主郭へ、敵が侵入するのを防ぐためのものである。
所在地:佐賀県三養基郡基山町
JR鹿児島本線基山駅から徒歩で水門跡(南門跡)まで50分、そこから山頂まで約30分
続日本100名城のスタンプは基山町民会館(基山町字宮浦666番地 0942−92−1211)
で
基肄城のスタンプは基山町民会館事務所前(基山町大字宮浦666 0942-92-1211 9時〜22時 12/29-1/4休) にて
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