続日本100名城 (182) 水城(みずき)
水城(みずき)は、太宰府市、大野城市、春日市にまたがって築かれた巨大な土塁と水堀で、
唐と新羅の攻撃を予想して造られた古代の防衛施設である。
JR鹿児島本線水城駅には水城跡に関する資料があり、駅の南東にふるさと水城跡公園があり、
「水城跡・四王寺山」の道標が建っている。
道標に従って進むと、水城の西堤の東端に出る。
その先は西鉄大牟田線などにより、水城は欠落してしまった。
土塁断面広場には「史跡水城址」の碑があるが、JR切通し部で土塁の断面を見ることができる。
「 土塁は土と砂が整然と積み重ねた、いわいる、「版築」という工法で造られていた。
また、地盤が軟らかい箇所では、生木の枝葉を敷き詰める「敷そだ」という工法が採用されていた。
これらの方法は中国、朝鮮の古代土塁にも類似した例があり、帰化した百済人によるものかも知れない。」
駅の西方に少し行ったところ(大野城市下大利三丁目七−二十五)の吉松川に水城西門礎石がある。
「 長さ235p、幅100pと長方形をしていて、表面には円形や方形の掘り込みがみられる。
西門の遺跡調査により、三回ほど改築されたことが確認されている。
築造当初は国防を目的とした堀立柱の門だったが、奈良時代には中国、朝鮮の使節団が鴻臚館(筑紫館)
から官道でここに来るので、日本の国力を誇示するため、国の表玄関にふさわしい礎石を用いた瓦葺きの
壮麗な楼門に建て替えられた。 さらに平安時代初めには大陸との関係悪化から防衛性を強化した門へ
と改築された後は、大宰府の役割減に伴い、廃れたと考えられている。 」
太宰府市国分二丁目に水城館があり、その前が水城東門と官道の跡である。
水城館の上に上ると道越しに水城跡を見ることができる。
「 水城は九州全体を治める太宰府政庁への入出口として東門と西門の二ヶ所しかない大変厳重な施設だった。
大野城の水城口城門から大野城市牛頸地区の間の平地が最も狭くなっている部分を塞ぐ形で造られ、
その規模は全長千二百メートル、基底部の幅八十メートル、高さ十メートルを越え、すべて人の手で
築かれた人工の土塁(土の堤防)である。
そして名のとおり海側(博多側)に幅六十メートル、深さ四メートルの堀を造り、水を貯えた。
西門は大宰府と筑紫館(後の鴻臚館)を結ぶ儀礼的な外交の主要道として、
東門は博多港(現博多遺跡群)に至る古代官道で、博多湾から海を通じて都や諸外国に通じていた。
水城は文永十一年(1274)、蒙古襲来の文永の役以後、防衛施設としての機能を失う。
大正十年(1921)に国の史跡に、昭和二十八年(1953)に国の特別史跡に指定された。 」
所在地:福岡県太宰府市国分二丁目17−10
九州自動車道太宰府インター太宰府市側出口から約5分
西鉄福岡天神駅より西鉄都府楼前駅まで最速約30分 、
西鉄都府楼前駅からバスで約10分、徒歩では約40分
JR鹿児島本線水城駅から南西数百メートルのところにある(徒歩10分)
水城のスタンプは東門跡(水城3丁目交叉点の脇)の近くの水城館(092-555-8455 9時〜16時30分、月休 12/28-1/4休)
JR水城駅、大野城心のふるさと館(9時〜19時 月休) 大野城市役所新館3F行政資料室(8時30分〜17時 土、日、祝日休) にて
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