続日本100名城 (181) 小倉城(おぐらじょう)
小倉城は、毛利勝信が築いた城を細川忠興が七年かけて改造した城である。
唐造りの天守がある城として有名である。
「 小倉城の始まりは十三世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれる。
その後、三百年の間、北九州の覇権を狙って、菊池氏、毛利氏、大友氏などの戦いに巻き込まれた。
天正十五年(1587)、毛利勝信が現在見られるような縄張で、総石垣造の城郭を築いたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易になる。
東軍についた細川忠興は、徳川家康より、論功報償として豊前国を与えられ、四十万石の大名になり、中津城に入城。
慶長七年(1602)から七年かけて、毛利氏が築いた小倉城を改築し、南蛮造の天守などを建てた。
この時、城下町も整備され、紫川で東西に二分し、西は主として侍町、東は町人や下級武士達の町とした。
寛永九年(1632)、細川氏は肥後国に移り、代わりに小笠原忠真が十五万石で入城、以後小笠原の居城として幕末を迎える。
慶応九年(1866)の長州戦争で、小倉藩は長州軍の攻撃を前に小倉城撤退を決め、八月一日付け火により、小倉城は焼失してしまう。
明治に入り、陸軍歩兵旅団の本部が松の丸跡に、明治三十一年(1898)には第十二師団司令部が本丸跡に置かれた。
大正に入り、師団は久留米に移転、昭和九年八坂神社が北の丸跡に移転した。
現在の小倉城跡は小倉北勝山公園と八坂神社、小倉城庭園の他、北九州市役所などの公共施設になっている。 」
西小倉駅を出て清張通りを進むと十分程の交叉点の左手に小倉城の堀がある。
交叉点を左折して進むと、道の右側に八坂神社の鳥居があり、堀にかかる橋を渡ると朱の東楼門がある。
「八坂神社の由来書」
「 元和三年(1617)、小倉城主、細川忠興が神殿を鋳物師町に建立し、
豊前国の総鎮守とし、祇園社と称した。 以来、小笠原氏へと引継れて、三百有余年、
昭和九年、小倉城内北の丸に遷座された。 」
北の丸だった八坂神社の境内を通り抜けると、小倉城の郭と天守閣が樹木の間から見えてくる。
「 慶長七年(1602)に細川忠興が築城した小倉城は「唐造り」とよばれる全国でも珍しい天守閣のある城で、
本丸を中心に、南に松の丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式平城であった。 」
小倉城跡には八坂神社の他、小倉北勝山公園と小倉城庭園があるが、
その他は北九州市役所などの公共施設になっていて、
「大手先門跡」の石柱の先には、近代的なビルの北九州市役所などが見える。
天守閣は昭和三十年代に、豊前小倉御天守記や小倉城絵巻、延享三年巡見上使御答書等をもとに、
鉄筋コンクリート構造によって、復興されたものである。
「 細川忠興が建てた天守閣は四重五階の大天守と一重の小天守からなる連結式層塔型天守である。
大天守は最上階外廻縁が幕府への遠慮により重数を少なく見せるため、
また、雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りで、
最上層の入母屋破風を除き、破風が一切ないものだったという。
天守は、天保八年(1837)、失火により御殿とともに焼失したので、
天守台に「御三階」と呼ばれる建築を建てて、天守の代用とした、とされる。
現在の天守閣は、破風などが地元観光面への考慮からの要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が見られる。 」
天守閣の前には大名屋敷と庭園、また、堀の周りに櫓が再建されている。
天守閣の周囲を歩くと、「第十二師団司令部跡」の標柱や長州戦争の大砲がある。
また、いくつかの門跡が表示されていて、門跡の石垣には当時を偲ぶ感じがした。
所在地:福岡県北九州市小倉北区城内2
小倉城入城には350円が必要(小倉城、小倉城庭園)
JR山陽新幹線・鹿児島本線・日豊本線小倉駅から徒歩15分、鹿児島本線・日豊本線西小倉駅から徒歩10分
小倉城のスタンプはしろテラス(小倉北区城内2-1 4月〜10月9時〜18時、11月〜3月9時〜17時) にて
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