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二ノ段 | 堀切 | 詰下段跡 |
岡豊城は登るに比例し展望が開け、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋を望むことができる。
南には国分川がながれ、自然の要害を形成している。
その上の広場が詰、一般的には本丸といわれる部分である。
「 詰は岡豊城の中心となる曲輪で、標高八十七メートルの岡豊山の頂上部にあり、 東には二ノ段、南から西にかけては三ノ段、 四ノ段が詰を取り巻くように造られた一辺四十メートルのほぼ三角形の形状をし曲輪である。 」
詰の中には「岡豊城跡」の石碑が建っているが、西南部には建物跡の礎石が復元されている。
説明板「詰 礎石建物跡」
「 詰の西南部で礎石が発見された。 建物跡の南端は四十センチ〜六十センチの割石を幅一メートル〜
一メートル五十センチ、長さ十六メートルに敷かれた石敷遺構で、その北側には建物跡の礎石が続いている。
建物跡は五間X四間、一間X一間の二棟で、面積は七十五u、三u。
この二棟は石敷遺構と繋がって東西方向の大きな建物である。
詰の建物跡は近代城郭の天守の前身とみられる二層以上の建物だったと考えられる。 」
その先に三ノ段がある。
説明板「三ノ段)
「 三ノ段は詰の南と西を囲む曲輪で、南部は幅五メートル、西部は幅三メートル〜八メートルの帯状になっていた。
発掘調査で、礎石建物跡一棟と中央部に詰への通路になっている階段跡、そして、土塁の内部に石垣を発見。
岡豊城の土塁には石垣はないとされていたが、西側の土塁には二十センチ〜四十センチの割石を一メートルほど積んだ石垣があることが分かった。
階段跡は岩盤を削り、両側は野面積石垣である。
階段跡のすぐ北には礎石建物跡が接していて、通路は南から階段を通り、詰に登れるようになっていた。 」
説明板の下に 「←展望広場四ノ段 子供広場伝厩曲輪→」があるので、展望広場に向う。
四ノ段には石碑が建っているが、入口には虎口があったようである。
展望広場に入る手前にの高台に外に向って「長宗我部・岡豊城跡」の大きな石碑が建っている。
詰(本丸)跡 | 三ノ段 | 四ノ段 |
展望広場の眼下には城の防衛を担った国分川が流れている。
長宗我部元親はこの風景を見ながら、四国統一の夢を見たのだと思った。
展望広場を下ると「竪堀(たてほり)」があった。
「 竪堀は敵の侵入を防ぐために城の斜面に上から下に掘られた堀である。
詰の西斜面や伝厩跡曲輪(出城)の南斜面に連続して掘られている。
その断面は箱型やU字型になっていて、岩盤を削って造られている。 」
竪堀をみて下ると三叉路に出た。
これは本城部分の南側の小山にある伝厩跡曲輪への通路である。
道標に従っていくと伝厩跡曲輪に出た。
「 この曲輪は詰の西南方向にある出城で、伝厩跡曲輪と呼ばれているもので、 戦いの時には西方からの攻撃に対し、詰を中心とする本城を守る出城としての役割を果すためのものである。 長さは約三十メートル、幅は十七メートルの楕円形の形状をしていて、周囲は急な斜面に囲まれていた。 」
また、北西には二本の堀切、南斜面には竪堀群がある。
以上で、岡豊城の見学は終わり。
岡豊城は石垣を使用する近代の城郭と違い、土塁と簡単な建物の山城時代の城だ、と思った。
国分川 | 竪堀 | 伝厩跡曲輪跡 |
所在地:高知県南国市岡豊町八幡
JR土讃線土佐大津駅から車で15分
高知市内中心部から、 とさでん交通バス「領石、オフィスパーク、田井方面行き」で、 学校分岐(歴史館入口)下車、 徒歩約15分
岡豊城のスタンプは高知県立歴史民俗資料館にある。 現在耐震工事中のため、
2021年4月中旬(予定)まで閉館中。
同じ敷地内にある山村民家の旧味元家住宅主屋(9時〜17時年末年始休み) にある