続日本100名城 (180) 岡豊城(おこうじょう)






岡豊城は四国を平定した戦国の風雲児・長宗我部元親の居城として知られる中世の城郭である。

「 室町時代、応仁の乱後の永正四年(1507)、管領・細川政元が暗殺されると、 細川氏本家で家督・管領職争いが起きた。 
そのため、直轄領の土佐の支配力が低下し、長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、 津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の勢力争いが勃発。  翌、永正五年(1508)、長宗我部兼序は本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって攻められ、岡豊城は落城する。 
土佐南西部にある中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正十五年(1518)、 一条氏の取り成しで旧領に復し、岡豊城に入り、岡豊城を足掛かりに土佐の有力大名へ成長し、 一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。 
国親の子・元親の時代に長宗我部氏は大飛躍。 
天正二年(1574)、主家であった一条兼定を豊後に追放し、土佐国を平定し、 天正十三年(1585)には念願の四国統一を果たした。 
しかし、それはつかの間のことで、羽柴秀吉の進攻により降伏し、土佐一国に押し込められてしまう。 
天正十六年(1588)、大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが、治水の悪さを理由に再び岡豊城を本拠とした。 
天正十九年(1591)、浦戸城を築いて移転し、長宗我部氏歴代の居城・岡豊城は廃城となった。 」 

岡豊城が造られたのは発掘調査の結果、十三世紀〜十四世紀頃と考えられている。 

「 岡豊城は南国市の北西部、香長平野の北西端に突き出た、標高八十七メートルの岡豊山に築かれた城で、 詰(本丸に相当する)を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の二つの出城からなる連郭式の構造である。 
本城は詰と堀切により隔てられた二ノ段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三ノ段、四ノ段からなり、 城の中心部への出入口になる虎口は西部に造られている。 
昭和六十年(1985)から平成二年(1990)にかけて発掘調査が行われたが、 詰、詰下段、三ノ段では礎石建造物跡や土塁の内側に石積みが発見された。 
多量の土師質土器と共に青磁、白磁、染付などの輸入陶磁器、瀬戸、備前、常滑などの国産陶器、 渡来銭、小刀、火縄銃の部品や弾丸などが見つかった。 」

国道三十二号から分れ、登っていくと歴史民俗資料館がある。 
続日本100名城の岡豊城のスタンプは高知県立歴史民俗資料館にある。 
資料館脇の石段を登ると「二ノ段」に出る。 

説明板「二ノ段」  
「 二ノ段は堀切によってへだてられた曲輪で、長さ四十五メートル、 最大幅二十メートルのほぼ三角形であり、南部には高さ八十センチの土塁が残っていた。 」  

二ノ段から詰に向うと谷のような堀切がある。  

説明板「堀切」  
「 堀切は尾根などを空掘によって断ち切り、敵の侵入を防ぐ施設である。  岡豊城の堀切は詰と二ノ段の間に一本、北に延びる尾根上に二本、西の伝厩跡曲輪との間に二本、 同じ曲輪の北西部に二本造られた。 堀切はいずれも幅三メートル〜四メートル、深さ約二メートル。  中でも詰と二ノ段を隔てるこの堀切が最大のものである。 」 

石段を上がると「詰下段」に出る。 

説明板「詰下段 礎石建物跡」  
「 詰下段は詰の東に附属する小曲輪跡で、礎石建物一棟跡と土塁などの遺構が発見された。  礎石建物は二間X五間で、面積は五十三平方メートルと大きく、 東の土塁と西の傾斜面に建てられていた。 土塁は幅二十五メートル、高さは一メートルと考えられる。  土留めのため、二〜三段の石積みがある。  詰下段はは堀切に面し造られた土塁や建物などを見ると、 二ノ段から詰への出入口を守るために建てられた小曲輪だったと考えられる。 」 

二ノ段
     堀切      詰下段 礎石建物跡
二ノ段堀切詰下段跡



岡豊城は登るに比例し展望が開け、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋を望むことができる。 
南には国分川がながれ、自然の要害を形成している。 
その上の広場が詰、一般的には本丸といわれる部分である。 

「 詰は岡豊城の中心となる曲輪で、標高八十七メートルの岡豊山の頂上部にあり、 東には二ノ段、南から西にかけては三ノ段、 四ノ段が詰を取り巻くように造られた一辺四十メートルのほぼ三角形の形状をし曲輪である。 」 

詰の中には「岡豊城跡」の石碑が建っているが、西南部には建物跡の礎石が復元されている。 

説明板「詰 礎石建物跡」 
「 詰の西南部で礎石が発見された。 建物跡の南端は四十センチ〜六十センチの割石を幅一メートル〜 一メートル五十センチ、長さ十六メートルに敷かれた石敷遺構で、その北側には建物跡の礎石が続いている。  建物跡は五間X四間、一間X一間の二棟で、面積は七十五u、三u。  この二棟は石敷遺構と繋がって東西方向の大きな建物である。  詰の建物跡は近代城郭の天守の前身とみられる二層以上の建物だったと考えられる。 」 

その先に三ノ段がある。 

説明板「三ノ段)
「 三ノ段は詰の南と西を囲む曲輪で、南部は幅五メートル、西部は幅三メートル〜八メートルの帯状になっていた。  発掘調査で、礎石建物跡一棟と中央部に詰への通路になっている階段跡、そして、土塁の内部に石垣を発見。  岡豊城の土塁には石垣はないとされていたが、西側の土塁には二十センチ〜四十センチの割石を一メートルほど積んだ石垣があることが分かった。  階段跡は岩盤を削り、両側は野面積石垣である。  階段跡のすぐ北には礎石建物跡が接していて、通路は南から階段を通り、詰に登れるようになっていた。 」 

説明板の下に 「←展望広場四ノ段 子供広場伝厩曲輪→」があるので、展望広場に向う。 
四ノ段には石碑が建っているが、入口には虎口があったようである。 
展望広場に入る手前にの高台に外に向って「長宗我部・岡豊城跡」の大きな石碑が建っている。 

詰(本丸)跡
     三ノ段      四ノ段
詰(本丸)跡三ノ段四ノ段



展望広場の眼下には城の防衛を担った国分川が流れている。 
長宗我部元親はこの風景を見ながら、四国統一の夢を見たのだと思った。 
展望広場を下ると「竪堀(たてほり)」があった。  

「 竪堀は敵の侵入を防ぐために城の斜面に上から下に掘られた堀である。 
詰の西斜面や伝厩跡曲輪(出城)の南斜面に連続して掘られている。  その断面は箱型やU字型になっていて、岩盤を削って造られている。 」

竪堀をみて下ると三叉路に出た。  これは本城部分の南側の小山にある伝厩跡曲輪への通路である。 
道標に従っていくと伝厩跡曲輪に出た。 

「 この曲輪は詰の西南方向にある出城で、伝厩跡曲輪と呼ばれているもので、 戦いの時には西方からの攻撃に対し、詰を中心とする本城を守る出城としての役割を果すためのものである。  長さは約三十メートル、幅は十七メートルの楕円形の形状をしていて、周囲は急な斜面に囲まれていた。 」 

また、北西には二本の堀切、南斜面には竪堀群がある。 
以上で、岡豊城の見学は終わり。 
岡豊城は石垣を使用する近代の城郭と違い、土塁と簡単な建物の山城時代の城だ、と思った。

国分川
     竪堀      伝厩跡曲輪跡
国分川竪堀伝厩跡曲輪跡




所在地:高知県南国市岡豊町八幡  
JR土讃線土佐大津駅から車で15分  
高知市内中心部から、 とさでん交通バス「領石、オフィスパーク、田井方面行き」で、 学校分岐(歴史館入口)下車、 徒歩約15分   
岡豊城のスタンプは高知県立歴史民俗資料館にある。 現在耐震工事中のため、 2021年4月中旬(予定)まで閉館中。 
同じ敷地内にある山村民家の旧味元家住宅主屋(9時〜17時年末年始休み) にある  



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かうんたぁ。