続日本100名城 (178) 能島城(のしまじょう)
能島城は伊予国の水軍、村上義弘の子孫、義顕が応永二十六年(1419)に能島をそのまま利用して築いた海城である。
昭和二十八年(1953)、能島城跡は国の史跡となり、昭和四十八年(1973)、愛媛県は「能島水軍の里」を設置し、たびたび文化財調査等を行なってきた。
「 能島は愛媛県今治市(旧:越智郡宮窪町)に属し、
しななみ海道が通る伯方島と大島との間に流れる宮窪瀬戸の鵜島の南西に位置する無人島で、
周囲は七百二十メートル、約二・五キロuの面積である。
大島の宮窪地区や見近島(みちかじま)、鵜島そして能島は平安末期から戦国時代まで村上水軍(海賊)の拠点として、
瀬戸内海の制海権を支配した土地である。 」
能島には渡れないので、大島の宮窪地区に平成十六年に開館した、全国初の水軍に関する博物館「村上水軍博物館」へ行った。
博物館では村上水軍に関する説明や展示が行われている。
「 村上水軍は三島村上氏と呼ばれ、三家に分かれ、
来島、因島そして能島を本拠地にしていた。
能島城には村上義顕の長男、雅房が入城し、以後能島村上水軍の本拠となり、
来島海峡にある来島城を本拠にした来島村上氏は守護大名の河野氏と結びつき、
因島村上氏は大内氏、その後、毛利氏の有力な水軍になった。
ここ宮窪に本拠を置く能島村上氏は独立性が高く、特に村上武吉は大に従わず、
独自の姿勢を貫き通したことで有名で、司馬遼太郎の小説は有名である。 」
この海域は古代から瀬戸内航路の最も重要な航路の一つで、
宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係にあることから、
干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害となっていた。
このため、平時には通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、
帆別銭を徴収、室町期以降この地に能島城が築かれ、この海域の制海権を掌握していた。
博物館前には宮窪で毎年行われる水軍祭の舟があり、村上水軍が使用したものの復元とある。
沖縄のサバニに似た軽快に走りそうな構造と思った。
展示室には水軍の軌跡やエピソードなどが映像で分かるようになっている。
海賊の歴史と戦い形法などの展示は工夫があり、面白かった。
当初は帆別銭を徴収し、従わねば舟に乗りこんで積荷を強奪する仕事を生業にしていたが、
中四国の豪族が淘汰され、大名になっていく過程で、瀬戸内の海賊もその組織に組み込まれ、
水軍となっていったということ。
平家と源氏との戦い、毛利の陶氏の宮島の戦い、信長の石山本願寺との戦いなどで、
各地の水軍が駆り出されて重要な役割を演じていた訳である。
展望室からは激しい潮流と能島が目の前に開けていたが、
曇り空ですっきりは見えなかった。
博物館には能島城の想像図があった。
能島城には本丸、二の丸、三の丸、出丸などがあり、
中世の水軍城としても規模が大きいものだったといわれる。
兵士は能島だけでは収容しきれないので周囲の島に分散していたようで、
隣の鵜島の住民はその末裔である。
また、能島には水が得られないことから近傍の鵜島や木浦から補給していたとされる。
「 弘治元年(1555)、毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時、
村上武吉は宇賀島をはじめ、周防海賊衆を壊滅させようと、
毛利方水軍の総大将として、僅か二十三歳で出陣し大勝。
その結果、能島村上氏は西は九州、東は塩飽諸島と瀬戸内西部を完全に押さえ、
海上交通を掌握し、地方の有力大名に肩を並べる海の大名として勢力を張った。
この頃が村上水軍の絶頂期である。
戦国時代の末期、村上氏は毛利氏に加担し、
豊臣秀吉との戦いに参戦したが敗北を喫し、
豊臣秀吉から海賊禁止令(1588年)が出され、水軍の歴史は終わりを告げた。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で敗退した毛利輝元は周防と長門二ヶ国に減封されたので、
村上武吉も輝元に従って周防国に下り、能島城は廃城となった。
村上武吉は周防国大島和田の地で三年後に没したが、
村上氏は毛利藩の船奉行として明治を迎えている。 」
能島は江戸時代以降無人島となったため、その城塞遺構はよく保存されているというが、
今は船溜り跡の石塁や波打ち際に残る柱の穴に往時を偲ぶにすぎない。
昭和六年(1931)には宮窪村の有志により能島に桜が植えられた。
満開の時には花見船が運航されるという。
※西日本豪雨災害の影響により上陸禁止(復旧未定)
所在地:愛媛県今治市宮窪町能島
今治駅から大三島行き急行バスで30分、石文化公園下車、大島島内バスに乗り換え10分、村上水軍博物館下車、すぐ
能島へは宮窪港から船で5分(通常渡船なし、4月桜祭の2日のみ渡船)
能島城のスタンプは村上水軍博物館(0897-74-1065 9時〜17時入館は16時30分まで 月休)受付にて
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