続日本100名城 (176) 一宮城(いちのみやじょう)
一宮城は山麓に阿波国一宮神社が鎮座する高さ百二十メートルの山頂に築かれた天嶮を利用した山城である。
「 室町時代初期、阿波国守護である小笠原長房の四男、小笠原長宗が
一宮宗成を滅ぼし、移り住んだと伝えられる。
その後、小笠原長宗は一宮氏を称し、一宮城を代々居城とした。
南北朝時代、小笠原長宗は南朝に属しており、北朝の細川頼春からの攻撃を受けるようになる。
暦応三年(1340)、細川軍は大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、
一宮城へと侵攻する。
たび重なる攻撃に対し、天嶮の一宮城は落城せず、
頼春の息子、細川頼之と一宮氏は和議を結ぶことになり、一宮成宗は息子の一宮成行に家督を譲り、
自身は隠居した。 以降、一宮氏は北朝側の国人衆となる。
戦国時代に入ると阿波国は細川氏の代わりに三好氏が守護代として勢力を伸ばし、
一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んだ。
阿波国の国主が三好長治に代わると三好家臣団が分裂を始め、
守護の細川真之と守護代の三好長治も交戦状態に入った。
これまでずーと三好方として戦っていた一宮成祐だったが、
三好長治が討ち取られると次第に細川軍の包囲が縮まり、孤立無援となった。
そして土佐一国から勢力を伸ばしつつある長宗我部元親とよしみを通じるようになる。
三好長治が死去すると阿波国では三好一族の十河保存が力を伸ばし、
一宮氏と衝突するようになる。
この頃、三好一族は中央で勢力を拡大しつつある織田信長に従属するようになり、
信長の命を受けた十河保存は一宮城へと攻め込んできた。
また、天正十年(1582)五月には三好康長が織田信長に帰服し、
四国征伐の先鋒を命じられ、十河保存と共に阿波国へと侵攻してきたが、
一宮成祐は一宮城に立て篭もり、見事に撃退している。
同年六月、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、三好康長は近畿へ撤退。
この機を逃さず、長宗我部元親は保存を攻撃し、阿波一国の平定に成功する。
元親の阿波統一戦に戦功をあげた一宮成祐だったが、
三好長康との内通を疑われ、この後忙殺されててしまった。
一宮城には元親の重臣、谷忠澄、江村親俊が配置された。
天正十三年(1585)五月の羽柴秀吉による四国攻めでは長宗我部軍との激戦地となった。
豊臣軍では豊臣秀長が四万の兵で城攻めを行い、一宮城は一万の兵でよく守ったが、
同年七月下旬に降伏、開城した。
長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏すると、
同年九月、羽柴秀吉は蜂須賀家政に阿波一国を与え、
家政は一宮城をて総石垣造りに改修し、居城とした。
しかし、交通に不便な一宮城から沿岸部の河口付近に徳島城を新築城し移ったが、
城は残り、江戸初期まで阿波九城の一つとして重要な位置を占めていた。
一国一城令に伴い、寛永十五年(163)に廃城となった。 」
現在の一宮城跡には、曲輪、石垣、竪堀、空堀、堀切、井戸跡などの遺構が残されている。
建物は残っていないが、主郭に築かれた巨大な石垣遺構が残り、
廃城の際に他の城にあるような徹底的な破壊が行われなかったことが伺える。
所在地:徳島市一宮町西丁
JR高徳線徳島駅から徳島バス神山線「寄井中行き」で一の宮札所前下車、すぐ
一宮城のスタンプは登城口(年中無休)の赤いポストの中にある
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