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見性寺 | 水濠 | 勝瑞城跡 |
勝瑞城の周囲は水濠が巡り、土塁で囲まれていた。
土塁の案内プレートには 「 土塁の現在はこの部分だけが確認できるが、
当時は周囲に巡っていたことが発掘調査で確認できた。
土塁は濠を掘った際の土を盛り上げて突き固めることで構築している。
平成九年に土塁から濠にかけて、発掘調査を実施。
当時土塁は最底部巾十二メートル、高さ二・五メートル、
濠は十四メートルの大規模なものだった。
その濠からは多くの瓦が出土した。 」 とあり、今も一部が残るという。
説明板の上が土塁のようだが、見た感じでは土塁と分らなかった。
見性寺のこの城跡は細川氏の守護所、三好氏の居館跡と思われていたが、
近年に行われた発掘調査により、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、
三好氏の最後の砦として築かれた可能性が高いことが分かったという。
広場の中央部に「勝瑞義家碑」と書かれた石碑があり、説明板がある。
「 四国正学といわれた徳島藩儒官那波魯堂の撰、 戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊を記した歴史的な記録で、すぐれた筆蹟は注目される。 」
勝瑞は中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、
細川氏九代、三好氏三代の約二百四十年の根拠地として歴史の舞台となったが、
十河存保の中富川の戦いの敗戦で城は捨てられ、
天正十三年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、
城下の寺院の多くは徳島城下に移転されて、町は衰退したという。
城の西方にあった見性寺は江戸時代の中期にこの地に移転してきたといわれ、
その時に三好氏の墓一つにまとめたとあり、
之長、元長、義賢、長治らの墓が並んで祀られていた。
土塁プレートの奥に土塁 | 勝瑞義家碑 | 三好氏墓所 |
当初、見性寺一帯が細川氏の守護所、三好氏の居館跡(勝瑞城)としていたが、
地名の再検討、伝承の検討、明治時代初頭の地籍図などの調査結果、
勝瑞城跡の南約百五十メートルの工場に、守護館や三好氏の居館があったと推定された。
見性寺を出て、道の反対側にあるコンビニの先の道には「←勝瑞城館跡」の標示があり、
進んでいくと、右側に工事現場のようなむき出しになった土地の一角に「史跡勝瑞城館跡」の石柱が立っている。
「 平成九年から十二年に確認調査により、
幅約十二メートルの濠に囲まれた、東西約百二十メートル、南北約百五十メートルの方形区画が、
その成立、廃絶時期や規模、構造、出土遺物の質、量から、
十六世紀後半に阿波支配の実権を握った三好義賢の居館跡ではないかという結論になり、
町教委と県教委は方形区画を勝瑞館跡とし、勝瑞城跡とあわせて、勝瑞城館跡と呼ぶことにした、という。
平成十二年から十三年度の調査で、館跡の東側から大規模な礎石建物跡がみつかり、
平成十三年、前述の勝瑞城跡とともに勝瑞館跡は国史跡に指定された。
平成十六年、十七年度の現地調査により、館内を分断して西へのびる幅十一メートルの東西の濠、
発掘庭園としては国内最大級の池泉庭園や枯山水庭園が発掘され、永禄七年と記された卒塔婆なども出土した。
勝瑞城館は大規模な濠に区画された複数の郭からなる珍しい複郭式の館だったのだろうと推定されている。 」
訪問当日はどしゃぶりの雨で、発掘現場は土が流れ出るような状態で、歩いて見て回れなかった。
右手中央に現地事務所と展示館があったので、その展示で満足することにした。
展示場には発掘の経緯や出土された陶器などが展示されていた。
出土された陶器は全国各地からのもので、文化レベルが高かったことが分かる。
現地見取り図 | 史跡勝瑞城館跡の石柱 | 史跡跡と現地事務所(右端) |
所在地:徳島県板野郡藍住町勝山瑞字勝地61−1
JR高徳線勝瑞駅から徒歩約10分
勝瑞城のスタンプは勝瑞発掘現場事務所(8時30分〜17時15分 土日祝日休 年末年始休)
土日祝日は近くの武田石油(平日は7時〜20時 日曜日は8時〜19時 但し第2、第4日曜日は休)
武田石油の休日の場合は隣のシューズショップタケダ藍住店(9時〜19時) にて