続日本100名城 (174) 大内氏館、高嶺城






大内氏館と高嶺城は山口県山口市にあった大内氏の居館と詰の山城で、共に国の史跡に指定されている。 

「 大内氏館はJR山口線の上山口駅の北西、六百メートルの山口市大殿大路にある、 周防国と長門国を本拠とした大内氏の居館(守護館)跡である。 
大内氏は百済の聖王の第三王子の後裔と称し、 多々良氏を名乗る周防国の在庁官人だったが、 平安時代末には周防で最大実力者になり、多々良盛房は周防介に任じられ、大内氏を名乗った。 
南北朝の時代、大内氏八代、弘幸は周防国と長州国を支配下に収め、 足利尊氏より二国の守護職に任じられた。 
その子、大内氏九代、大内弘世が山口を本拠と定め、移り住んだ。 」

大内氏館は大内氏九代、大内弘世により築かれた居館で、 京都を模した山口の街に似つかわしく、城郭でなく館として建てられた。 

「 最盛期の館は堀を含めると東西百六十メートル、 南北百七十メートル以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも言われる。 
最初の館は溝と塀で囲まれている程度だったが、十五世紀中頃には空堀と土塁が築かれ、防御力を備えた城館になった。 」 

その子の大内義弘の頃には手狭になったようで、館のすぐ北側に別邸として築山館(築山御殿)が築かれた。 

「 義弘は応仁の乱で、西国の実質的な総大将を務め、 大内氏館は住居として、築山館は迎賓館的な役割の場として使われていたように思われる。 
大内氏十六代、大内義隆の時代には周防を始め、長門、石見、安芸、備後、豊前、 筑前を領する、西国一の戦国大名となり、細川氏と争って明の交易を独占し、 キリスト教の布教を許し、宣教師や公家を保護したことから、独特の山口文化が生まれ、 文化的にも最盛期を迎えた。 
天文二十年(1551)、義隆は陶隆房の謀反により長門深川の大寧寺で自害した。 
変の後、陶隆房により、豊後大友氏二十代義鑑の次男が大内氏の後継者に担ぎ出され、 足利将軍から名前をいただき、大内義長となり大内氏館に入った。 
陶隆房は陶晴賢に名を変えていたが、弘治元年(1555)、安芸宮島の戦いで毛利軍に敗れ、自害する。 
翌、弘治二年(1556)に毛利元就が侵攻してくると、大内義長は山口を放棄して逃亡し、 大内氏館は役目を終えた。 」 

翌年の弘治三年(1557)、毛利隆元は大内義隆の菩提を弔うため、大内氏館跡に龍福寺を建立した。 
現在の龍福寺本堂は明治十四年(1881)の火災後に、 古敷郡大内村の天台宗興隆寺から文明十一年(1479)に建造されたと伝えられる釈迦堂を移築し、 本堂へ改造したもので、国の重要文化財に指定されている。 
本堂の南東にある池泉式庭園(2号庭園)は発掘調査により、検出されたもので、  中央部にひょうたん池がああり、水は庭園東側の水路から入れている。 
周囲には庭を鑑賞する建物だったと思われる礎石や石組井戸なども復元、展示されている。 
枯山水庭園(3号庭園)は平成九年から十年(1997〜1998)の調査で発見され、 平成十七年(2005)に復元整備されたもの。 
そのほか、庫裏改修の際に発見されたのが1号庭園であるが、埋め戻されているので、 見ることはできない。 
築山館跡は築山神社と八坂神社の境内になっている。

「 八坂神社の本殿は大内氏九代、大内弘世が京都の八坂神社から勧請したもので、 社殿は上堅小路に建立されたが、永正十六年(1519)大内義興が大神宮を高嶺山の麓に建立の際、 その地に移転したが、江戸時代に毛利氏により、この地に移された。  本殿は永正年間に建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。 」

龍福寺本堂
     池泉式庭園(2号庭園)      八坂神社
龍福寺本堂大内氏館池泉式庭園(2号庭園)築山館跡(八坂神社)



大内氏館の左に延びる萩往還を北上すると、瑠璃光寺の五重塔があり、ここは現在香山公園になっている。
五重塔は大内文化の最高傑作とされ、国宝に指定されている。 
高さ約三十一メートル、屋根は檜皮葺き、二層のみ廻り縁がついているのが特徴。  建築様式は和様だが、廻縁勾欄の逆蓮頭や初層(一階)の中にある円形須彌檀などには唐様が取り入れされている。 

説明板
「 大内氏十代、大内義弘が現在地に香積寺を建立したが、応永六年(1399)に応永の乱を起し、足利義満に敗れて戦死した。 
弟の大内盛見が兄を弔うため五重塔の建設を始めたが、九州の少弐氏、大友氏との戦いで、永享三年(1431)に戦死した。 
五重塔は嘉吉二年(1442)に完成した。 」 

山口県庁の前のロータリーの一角に旧山口藩庁門が残っている。 

「 元治元年(1864)、時の藩主毛利敬親が藩政の本拠地を萩から山口に移すために建設した山口政事堂の表門として築造されたもので、 門の構造は切妻造、本瓦葺の薬医門で、主材はけやき、松を用い、木割ではなく、豪快で、いかにも城門らしい風格を残している。 
明治四年(1871)の廃藩置県までは藩庁門として使用され、その後は山口県庁正門として、 新県庁舎(現県政資料館、国重要文化財)が完成した大正五年(1616)からは西口の門として使用され、 現在にいたっている。 」

 「 幕末の文久三年、毛利敬親(もうりたかちか)は萩城から山口の中河原御茶屋に入り、 幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、 元治元年(1864)、現在の県庁のあるところに山口城を築城したが、第一次長州征伐が起きたため、 幕府に恭順の意を示すため、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親、元徳父子は萩へ退いた。 
慶応元年、毛利敬親は再び山口へ移り、翌年には修理が終わった新館へ居所を移した。 
この年始まった第二次長州征伐では、山口城は防長二州の政治、軍事の拠点として機能した。 」 

門をくぐると、植栽があり、その先には大正五年に建てられた県政資料館(旧県庁の建物)が風格を漂わせ ながら建っていた。 

五重塔
     山口藩庁門      県政資料館(旧県庁の建物)
瑠璃光寺五重塔山口藩庁門県政資料館(旧県庁の建物)



高嶺城は鴻の峰城、鴻之峯城とも記され、山口県山口市上宇野令字高嶺にあった山城である。 
県庁西門口交叉点の西側の山が高嶺山(鴻の峰)で、麓に山口大神宮があるが、その頂上に高嶺城があった。 
大内氏館の西北西に位置し、県庁はその中間にある感じである。 
登城道は県庁西門前の山口大神宮の高嶺稲荷神社横にあり、そこから徒歩で七十分かかる。 
車で訪れる場合、鴻ノ峰南麓の木戸神社の脇から城域の一角にあるテレビ中継所まで行くことができ、 そこから山頂まで五百メートル、徒歩約十五分である。 
手前の駐車場(26台)から道幅が一台分しかない狭い道なので、対向車に注意、 駐車できるのは三台程度。 

 「 高嶺城を築城したのは、周防国、長門国を本拠とした戦国大名大内氏最後の当主、大内義長である。 
大内氏館の詰の城として整えられた標高三百三十八メートルの鴻ノ峰に築かれた山城で、 四方に延びる尾根筋を削平して曲輪を配した連郭式縄張で、頂上部に砦と称する主曲輪がある。 
頂部曲輪(砦)は周囲に石垣が築かれ、この城でもっとも防備を施した曲輪である。  
大内義長は厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れ自害し、大内氏の主力も壊滅的な被害を受けたことから 石見の吉見正頼や安芸の毛利元就に備え、弘治二年(1556)築城を開始したが、 毛利氏による攻勢は予想以上に早く、翌弘治三年(1557)に山口に侵攻したため、 大内義長は未完成のままの高嶺城に拠らざるを得なくなり、 結局、大内義長や重臣の内藤隆世は城を放棄して長門の且山城へと逃れ、その地で自害した。 
大内氏滅亡後、高嶺城は毛利氏により築城が再開され、完成し、  城代として吉川氏一門の市川経好が入り、毛利氏による山口支配の拠点となる。
永禄十二年(1569)には、豊後の戦国大名、大友義鎮の支援を得た大内輝弘が周防へ侵攻し、 高嶺城を包囲し、攻撃したが、留守を守っていた経好の妻が指揮を執り奮戦し、 城の守りは固く、輝弘は城を落とすことはできず、 大内輝弘は九州より反転してきた毛利軍の前に敗北し、自害した。 
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利氏は周防、長門の二ヶ国に減封された際、 毛利輝元は新たな根拠地として、長門国萩の指月山、周防国防府の桑山とともに高嶺を幕府に提出したが、 幕府は要地である山口への拠点移動は許さなかったため、萩城が毛利氏の本拠となった。 
元和元年(1615)の元和一国一城令により、高嶺城は破却されることが決定し、 寛永十五年(1638)に廃城となった。 」 

慶長絵図
     主郭の石垣      続日本100名城スタンプ
慶長絵図主郭の石垣続日本100名城スタンプ



所在地:山口市大殿大路119 龍福寺   
JR山陽新幹線・山陽本線新山口駅から山口線で20分、山口駅下車、 バスで5分県庁前で下車、徒歩約10分  
大内氏館・高嶺城のスタンプは山口市歴史民俗資料館(083-924-7001 9時〜17時入館は16時30分まで 月休 年末年始休) か、大路ロビー(火休)で押せる 
山口市歴史民俗資料館は県庁の西側の県庁西門口交叉点の東側にある 
大路ロビーは大内氏館跡の南西にあるので、 大内氏館跡を訪れてのスタンプは歴史民俗資料館の方がよいだろう 



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かうんたぁ。