続日本100名城 (173) 新高山城(にいたかやまじょう)






新高山城は毛利元就の三男、小早川隆景が、新高山山頂の砦を修築し、城郭にしたもので、 三原城に移るまで使用された山城である。 

「 新高山城は広島県三原市本郷町にあった山城で、城跡は国の史跡に指定されている。 
毛利元就の三男、小早川隆景は天文十九年(1550)、竹原、沼田の両小早川家を掌握し、 翌年、代々小早川氏の居城であった沼田川(ぬたがわ)の対岸にあった高山城に入城した。 
翌年の天文二十一年(1552)、副塁としていた沼田川対岸も新高山山頂の砦を修築し、 ここに本拠を移した。 
新高山城からは沼田川流域や河口の展望がよくきき、水運の便もよく、 また、家臣の人心一新のため城替えをしたといわれる。 
小早川隆景は慶長元年(1596)、海に面した沼田川河口の三原城へ本城を移した。 」  

新幹線が高山城の下を抜け、沼田川を渡り、新高山城をトンネルで通過していく。 
この山は新高山城がある新高山で、山陽新幹線のトンネルがある。 
本丸の東端にあるのは詰の丸である。 
新高山は巨石が多く露出していたようで、ここには石を切り出す矢穴跡の見える石がある。 
その先は急崖になっていて、対面に高山城のあった高山があり、眼下には沼田川が流れている。 
巨石が露出していて、往時はこの上に櫓が建っていたとされる。  また、まがい仏が数体祀られていた。 

「 新高山は標高百九十七・六メートル、東よりの中腹以上の斜面には岩山が露出し、 いたるところに岸壁がそそりたち、するどく聳えた俊厳な山容で、  その上にある新高山城は沼田川を挟んで高山城と対峙し、 北側と東側は沼田川によって天然の濠をなしていた。 
外郭は斜面の中腹から張り出した二つの尾根を利用し、 大手側を固める意図をもって巧妙に配置され、 匡真寺跡、鐘の段、番所跡、紫竹の丸、シンゾウス郭、大手道などがあった。 
また、頂上尾根や鞍部を巧みに利用して、東から東の丸、その南にライゲンガ丸、詰めの丸があり、 その西に本丸、その西に中の丸、釣井の段(井戸郭)を配置し、その西に石弓の段、西の丸、北に 北の丸、南に紫竹丸を配する東西約四百メートル、南北五百メートルの大きさであった。 」 

新高山
     矢穴跡の見える岩      まがい仏が岩上に
新高山
矢穴跡の見える岩
まがい仏が岩上に



本丸跡には枡形の土塁や建物礎石等があり、 永禄四年(1561)には毛利元就・隆元親子が十日間滞在し、 隆景は会所、表屋敷、裏屋敷、高間、常の茶の湯の間などのたてもので、 連日、能楽や連歌、太平記読みなどを催して饗応接待している。 

説明板「本丸跡」
「 本丸は山頂尾根を削平した四段からなり、東西125mに及ぶ広大な郭で、 西側と北側の斜面は巨石による石垣で補強している。  東の最高部は標高197.6mで、巨石が露出しているが、 この上に櫓をあげていたものと思われ、近世の城郭の天守台にあたる郭である。  本丸の広い郭には居館跡と思われる礎石の一部が露出しており、 また、西側の中の丸からの登り口にあたる本丸西南隅には内桝形の跡が残っている。 」 

本丸北西に大手門があったようで、「大手門跡」の説明板が立っている。 

「 大手道を登りつめたこの場所は外枡形の大手門跡と推定される。  三原市の宗光寺の山門は国の重要文化財で、 高山城(新高山城)の大手門を移したものと伝えられるが、 ここにその門が建っていたと思われる。 」 

小早川隆景は慶長元年(1596)、海に面した沼田川河口の三原城へ本城を移したが、 築城の際、石垣などを持ち去ったとされるので、大手門もその一つなのだろう。 
大手門跡を北に降りるとあるのが釣井の段(井戸郭)である。 

説明板 「釣井の段(井戸郭)」 
「 上下二段からなるこの井戸郭は東西南北ともに50m余という城内最大の郭である。 上 段の郭には径約2mの円形石積井戸が4ヶ所、下段の郭には径4.2mと2.2mの円形石積井戸が残っている。  今なお、清水を湛えるものもあり、 城主をはじめ多くの家臣団の城内生活を物語るものである。 」 

本丸跡
     大手門跡      釣井の段
本丸跡
大手門跡
釣井の段(井戸郭)



釣井の段のh東側には東の丸とライゲンガ丸があり、西側には「中の丸(二の丸跡)」の標柱が建って いるが、これは中の丸の曲輪の北部分である。 

「 中の丸は釣井の段の左(西側)から南に本丸の左側の曲輪下を守り、 本丸の西側に円形方形状の曲輪で、 複数の段で構成され、随所に土塁を築き、いくつかの曲輪を設けて、防衛していた。 」

ここから南に向うが、両側に雑草がはえる狭い道である。 
その先の左側は石垣が崩れて散乱しているが、 これは本丸土塁跡で、昔は土塁の斜面を巨石の石垣で補強していたと思われる。 
その先の左側に木の階段があるが、階段の上は門跡とされる。 
ここは本丸の西南隅で、かっては内枡形の門が建っていたと推定されている。 

本丸跡
     本丸土塁跡      釣井の段
「中の丸(二の丸跡)」の標柱
本丸土塁跡
本丸門跡



その先を西に向う(左折する)と中の丸の中心曲輪で、 「中の丸(二の丸跡)」の標柱と説明板が建っている。 礎石は重臣の居館の跡と思われる。 

説明板「中の丸(二の丸跡)」 
「 本丸北方に四段の郭からなる東の丸、井戸郭、五段からなる中の丸の各郭が配置され、 これらが二の丸の縄張である。  中の丸の郭には随所に土塁が築き、曲輪を設けて、防備を固めている。  また、北方の中の丸の広い郭には礎石の配置が一部みられるが、 規模の大きな建物があったことが知られる。 」 

中の丸の西側には西の丸の東端に位置する曲輪の石弓の段があるが、 西の丸と石弓の段の間に二の丸を守る箱薬研の堀切があった。 
西の丸の北に北の丸、南西に紫竹丸があり、三の丸を形成していた。  また、西側を竪堀群で防備していた。 
中の丸の下に登城道が続き、中の丸下の腰曲輪があり、西側にかっては匡真寺があった。 

「 匡真寺(きょうしんじ)は小早川隆景が天正五年(1577)に建立し、 父、毛利元就の七回忌と母の三十三回忌の法要を執り行われたとする寺である。  城の南側中腹の曲輪にあり、東西約四十一メートル、 南北約七十二メートルに及ぶ広大な敷地で、今も瓦片が散乱している。 」 

その東手に「番所跡」の説明板があるが、番所跡は三段あり、土塁が今も残っている。 

説明板「番所跡」 
「 軽石の段、中の段、下の段の三郭からなり、 大手道を警固する番所が設けられていたところである。  この番所の東方と西方もそれぞれ東の番所に、西の番所と呼ばれる郭が残っている。 」 

番所跡の登城道の下に「鐘の段」の説明板がある。 

説明板「鐘の段」
「 城山の南斜面中段に半独立的小丘をなしている郭で、鐘の段と呼ばれる。  この鐘の段は北方背後に土塁を設けた二郭、東側に大小二郭、西南部に三段の郭を配置している。  鐘の段を中心としたこれらの郭は地形や縄張からみて、 中世初期の独立した山城(丘城)の形態をなしており、 この部分の築城年代は古いものと思われる。 」 

中の丸跡
     匡真寺跡      鐘の段跡
中の丸跡
匡真寺跡
鐘の段



所在地:三原市本郷町本郷 
JR山陽本線本郷駅から登城口まで徒歩約20分、登城口から山頂まで約30分  
JR本郷駅南口から県道33号へ向い、沼田川を渡ると川沿いの側道に入りしばらく歩くと、 「経塚」「新高山城址道」「弥生本郷遺跡道」の石柱が建っている。 
車の場合、「新高山城跡P」と書かれた駐車場に置き、 南に進むと「小早川隆景 新高山城跡登山口」の看板があるので、指示に従い、 三百メートル進み、民家の間の狭い道を進むと、登城道になる。 
登城道は大手道跡で、林の中を行くが、道は整備されている。 
続日本100名城のスタンプは登城道にはなく、 本郷生涯学習センター奥の事務所入口の反対側にテーブルが設置され、
その上にある。  本郷生涯学習センター (三原市本郷町本郷南6丁目25番地1 0848−85−0701) 



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かうんたぁ。