続日本100名城 (172) 三原城(みはらじょう)






三原城は毛利元就の三男、小早川隆景により、築かれた海城(平城)である。 

 「 小早川隆景は天文二十一年(1552)、沼田川(ぬたがわ)の上流に新高山城を築き本拠としてきたが、 永禄十年(1567)、沼田川の河口の立地を活かし、大島と小島をつないだ砦を築き、 三原要害と呼ばれる前進基地(水軍の拠点)を造った。 
天正八年(1580)から天正十年(1582)にかけ、三原要害を二層の櫓が三十二、城門が十四ある城郭に 改造し、新高山城から三原城へ本拠を移した。 
天正十五年(1587)、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城(福岡県福岡市)に居城を移したが、 新高山城と三原城は持ち続けた。 
文禄四年(1595)、養子の秀秋に家督を譲り、隠居城として三原城に戻り、 翌年の慶長元年(1596)から城の本格的改修を始め、 新高山城の石垣の石を昼夜兼行で運ばせ、桜山から軍港までを一体化した要塞を完成させた。 
しかし、翌慶長二年(1597)、隆景は三原城にて病死した。 
隆景の死後、関ヶ原の戦いの後には、福島正則が安芸と備後に入封し、 正則は広島城に、そして三原城には養子正之を入れた。  元和五年(1619)、福島正則の改易により、浅野家家老の浅野忠長が紀伊新宮より入り、 広島藩の支城として幕末まで利用された。 
この間、寛文三年(1663)には本丸御殿を建て替えられ、また、宝永四年(1707)には地震の影響による石垣修理などが行われている。
明治維新後、三原城の館、櫓、門は移転または取り壊しが行われ、 明治十年(1877)、西国街道が濠沿いから現在の市道の道筋に付け替えられた。 
また、三原城を囲む海は埋め立てられ、糸崎港の港湾工事には、石垣が使用された。 
明治二十七年(1894)には本丸跡に山陽鉄道(山陽本線)の駅が造られた。  山陽新幹線が開通すると、本丸を横断するようになった。 」  

三原城の天守へは駅の北西側、1Fコンコースに「天守台入口」の標示があり、 その先の専用通路(6時30分〜22時)の階段を上がると植栽が大半を占める公園にでるが、ここが天守台跡である。 

「 天主台は本丸北側の先端部に位置し、 江戸城天守台と同規模の面積で本丸より一段高かったという。 
天守は建てられなかったが、絵図等によると三基の二重櫓が建てられ、それぞれ多聞櫓で連結されていた。 
現在は中央に「国指定史跡 三原城跡」の大きな木標と「史跡 小早川氏城跡」の石碑があるだけである。 
天主台からは水堀と石垣が見おろせる。 」

天守台の北側から堀を見ると、対面に見える石垣は後藤門の石垣である。 
備前国三原城絵図(慶応年間)に基づいて復元されたもので、 実際の石垣はこれよりも少し高く、北側の石垣は道の反対の歩道部分にあったという。 

天守台
     天守台      後藤門石垣
天守台入口
天守台
後藤門石垣



天守台の東北西の三方は水堀と石垣で囲まれていたが、南側は土塁となっていたらしいので、 現在、駅の北側は石垣で囲まれているが、 これらは新幹線が開通した際に築かれたものだろう。 
駅の左側から北に進むと、堀と天守台の西側石垣が現れた。 

説明板「天守台石垣(館町)」  
「 日本一の規模を持つ天守台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。  三原城が造られた1567年より十年後に信長により安土城が造られ、 初めて天守台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。  しかし、この三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想がない時代だったと考えております。  山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。  この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。  しかも、余人は真似るべきでないといわれた「アブミ積み」という特殊の工法は、 古式の石積形式を四百年経た今日まで立派に伝えております。  宝永四年(1707)の大地震では城内を役夫二万五千人を動員して修理した。  しかし、破損箇所は・・・、「元のごとく成りがたかりしを、 伝右衛門をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ」とあるが、 これは東北陵面のことと推測します。 」 

なお、この天守台の西側は小早川隆景の時代のもので、 東側は福島氏の時代に築かれたものである。 
その先には「隆景広場」の石碑があり、城の説明板が建っている。 
堀の先には「武家屋敷の石列」の石柱があるが、 発掘調査で武家屋敷の長屋門の礎石の石列が見つかったという。  また、隆景広場の先にあるあずまやは発掘調査で見つかった礎石列を基に、すぐ南に建築したもので、 その前の歩道は発掘調査で十二メートルだけ西国街道がみつかったことを示しているという。  かっては民家が立ち並んでいたようである。 

駅北側の石垣
     天守台石垣      隆景広場
新幹線高架下の石垣
天守台石垣
隆景広場



駅の南口のペアシテイには三原城築城450年事業で造られた「みはら歴史館」があり、 毛利家に関係する都市の案内と、市内の歴史史跡の紹介がされている。 
(注) 現在は閉鎖されているようである。 

館員に案内されて建物の外に出ると堀があり、 「三原城臨海1番櫓跡」の石柱が建っていた。 
ペアシテイの南の道を東に進む。 このあたりは城町という地名である。 
商店街の先に石垣が続いているところがあり、城址の石碑も建っていた。 
この石垣は「三原城船入櫓跡」である。 
本丸などの主城の南東にあった小高い島に手を加えて築かれた海上の櫓である。 
石垣をぐるーと回って少し行くと、堀があるが、 そこにある石垣の一部には小島の一部といわれる岩礁がみられる。 
神明大橋の下には「水はね」といわれる水の流れを緩和する石垣(東大手門の南)が残っている。 

三原城臨海1番櫓跡
     三原城船入櫓跡      船入櫓跡岩礁
三原城臨海1番櫓跡
三原城船入櫓跡
船入櫓跡岩礁




三原城で現在も残るのは天主台とそれを囲む三方の水堀、駅の南側の五番櫓と船入櫓の石垣および、 本丸中門跡、臨海一番櫓跡の石垣と堀のみである。 これだけ徹底的に遺産がないのは珍しい。 

所在地:広島県三原市城町1丁目  
JR山陽新幹線・山陽本線三原駅から徒歩5分  
三原城のスタンプは、少し離れた三原市歴史資料館館(三原市円一町二丁目3番2号 9時30分〜〜17時 月休 12/28-1/4休) にある  



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かうんたぁ。