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天守台の東北西の三方は水堀と石垣で囲まれていたが、南側は土塁となっていたらしいので、
現在、駅の北側は石垣で囲まれているが、
これらは新幹線が開通した際に築かれたものだろう。
駅の左側から北に進むと、堀と天守台の西側石垣が現れた。
説明板「天守台石垣(館町)」
「 日本一の規模を持つ天守台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。
三原城が造られた1567年より十年後に信長により安土城が造られ、
初めて天守台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。
しかし、この三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想がない時代だったと考えております。
山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。
しかも、余人は真似るべきでないといわれた「アブミ積み」という特殊の工法は、
古式の石積形式を四百年経た今日まで立派に伝えております。
宝永四年(1707)の大地震では城内を役夫二万五千人を動員して修理した。
しかし、破損箇所は・・・、「元のごとく成りがたかりしを、
伝右衛門をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ」とあるが、
これは東北陵面のことと推測します。 」
なお、この天守台の西側は小早川隆景の時代のもので、
東側は福島氏の時代に築かれたものである。
その先には「隆景広場」の石碑があり、城の説明板が建っている。
堀の先には「武家屋敷の石列」の石柱があるが、
発掘調査で武家屋敷の長屋門の礎石の石列が見つかったという。
また、隆景広場の先にあるあずまやは発掘調査で見つかった礎石列を基に、すぐ南に建築したもので、
その前の歩道は発掘調査で十二メートルだけ西国街道がみつかったことを示しているという。
かっては民家が立ち並んでいたようである。
駅の南口のペアシテイには三原城築城450年事業で造られた「みはら歴史館」があり、
毛利家に関係する都市の案内と、市内の歴史史跡の紹介がされている。
(注) 現在は閉鎖されているようである。
館員に案内されて建物の外に出ると堀があり、
「三原城臨海1番櫓跡」の石柱が建っていた。
ペアシテイの南の道を東に進む。 このあたりは城町という地名である。
商店街の先に石垣が続いているところがあり、城址の石碑も建っていた。
この石垣は「三原城船入櫓跡」である。
本丸などの主城の南東にあった小高い島に手を加えて築かれた海上の櫓である。
石垣をぐるーと回って少し行くと、堀があるが、
そこにある石垣の一部には小島の一部といわれる岩礁がみられる。
神明大橋の下には「水はね」といわれる水の流れを緩和する石垣(東大手門の南)が残っている。
三原城で現在も残るのは天主台とそれを囲む三方の水堀、駅の南側の五番櫓と船入櫓の石垣および、
本丸中門跡、臨海一番櫓跡の石垣と堀のみである。 これだけ徹底的に遺産がないのは珍しい。
所在地:広島県三原市城町1丁目
JR山陽新幹線・山陽本線三原駅から徒歩5分
三原城のスタンプは、少し離れた三原市歴史資料館館(三原市円一町二丁目3番2号 9時30分〜〜17時 月休 12/28-1/4休) にある