続日本100名城 (170) 浜田城(はまだじょう)
浜田城は江戸時代の元和五年(1619)に古田重治により、きずかれた平山城である。
「 浜田城は江戸時代に入り築かれた平山城で、石見国浜田(島根県浜田市殿町)にあった城である。
元和五年(1619)、古田重治が大坂の陣の功により、浜田に五万四千石を与えられ、浜田藩が誕生する。
翌、元和六年(1620)、浜田市中心部の浜田川に囲まれた標高六十八メートルの亀山と呼ばれる独立式丘陵に
築城を開始し、元和九年(1623)に城と城下町が完成し、浜田城を藩庁とした。
古田氏二代目重恒は継ぐべき子がなく、跡目の件で慶安元年(1648)、家臣との争い(古田騒動)が起きたが、無嗣のため、お家断絶となった。
長州藩に対する山陰側の押さえの最前線とされたので、
その後の藩主は譜代、親藩の松平(松井)氏、本多氏、松平(松井)氏と代わった。
天保七年(1836)、松平(越智)斉厚が六万一千石で入封。
慶応二年(1866年)の第二次長州征伐の際、長州藩の大村益次郎が進軍してきたら、
浜田藩主の松平(越智)武聡は戦わずして逃走。
この際、敗残の兵が浜田城、浜田の街に放火したため、城は灰燼に帰した。 」
浜田城の跡地は城山公園になり、本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残っている。
登城口にある門は津和野藩武家屋敷にあった門で、明治維新では浜田県庁の正門になっていたが、
昭和四十二年(1967)に現在地に移築したものである。
小説家司馬遼太郎の碑文「浜田藩追懐の碑」があり、石見人の気質、石見の風土などを書き、
「 毛利への抑えのため、浜田藩が誕生したが、幕末の戦いでは藩主武聡が病臥中であり、
紆余曲折のすえ、城を焼いてしりぞいた。
明治維新に先立つ二年前の慶応二年(1866)のことだった。 いま城跡は苔と草木と石垣のみである。
それらに積もる雪こそ歴史の記念碑である。 」 と結んでいる。
浜田城は北部を松原湾、東部を浅井川、南部、西部を浜田川により天然の掘割とし、
本丸の南側に狭い二の丸、三の丸、西側に出丸が配された梯郭式平山城で、本丸には天守が設けられていた。
城下町は城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町屋を設けられていた。
現在、遺構として残っているのは本丸や二の丸の二の門などの石垣や土塁である。
江戸時代の本丸の規模は南北約六十メートル、東西約五十メートルで、周囲は塀で囲われていた。
「 本丸は北西隅に三重櫓、南東隅に本丸御門と六間長屋があり、中央付近に玉蔵が置かれていた。
天守は本丸の北西隅に築かれた独立式望楼型三重櫓で、
天守台は最初から造営されることはなく、本丸に礎石を置いて天守が建てられた。
天守の高さ約十四メートルで、上層階は九メートル四方、中層階は十二・七メートル四方、
下層階は南北約九・一メートル、東西約十六・四4メートルの大きさだった。
天守は明治時代初期頃まで存在したようである。
本丸に南側にある本丸の正門、本丸御門は通称は本丸一の門で、東側の六間長屋と隣接していた。
六間長屋は本丸の南東隅に存在した多聞櫓で、倉庫としての役目を持っていた。
これらの石垣は現存している。
玉蔵(たまぐら)は 本丸の中央付近にあった蔵で、広さは約五坪で、
鉄砲の弾丸などの武器類を収納していた。 」
二の丸は本丸の南側に位置する郭。 山麓にも二の丸が存在し、焔硝蔵や本丸常番所、
時打番所、中ノ門などが置かれていた。
「 二の丸の二ノ門は浜田城内最大の櫓門で、虎口は枡形で、進路を阻む構造である。
枡形は四方南北約三・六メートル、東西約五・四4メートルで、
門の脇の石垣上には二ノ門の上階にある長屋と接して塀が廻っていた。
門の石垣が残っているが、石垣が一部崩落して土塁となっている箇所がある。 」
三の丸は 二の丸の南側に位置する郭で、二の丸と同様に山麓にも三の丸が存在し、
御殿や諸役所、御用米蔵、大手門などが置かれていた。
出丸は本丸の西側に位置する郭で、本丸脇千人溜りとも呼ばれた。
「 東西約二十四・二メートル、南北二十三・九メートルの大きさで、
出丸への通路は北側と二の丸へと繋がる通路が南側に一ヶ所ずつあった。
二の丸と同様に山麓にも出丸が存在し、城の南側にある小高い独立式丘陵にあった。
夕日ノ丸とも呼ばれていて、今は本丸の西側の出丸と同様に藪や林になっている。 」
出丸木戸は出丸の北側の出入口で、出丸木戸を出ると本丸の石垣の周囲を廻る道に出るようになっていたが、
今は藪や林になっていて、訪問はむずかしい。
所在地:島根県浜田市殿町
JR山陰本線浜田駅からバス5分、商工会議所前下車徒歩5分
浜田城のスタンプは浜田護国神社社務所(8時〜16時、時期によっては17時) にて
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