続日本100名城 (167) 新宮城(しんぐうじょう)






新宮城は和歌山県の東南端、熊野川の右岸に位置する丹鶴山にあった城である。 

 「 慶長五年(1600)、関が原の合戦後、紀伊国に入国した浅野幸長に従って 新宮に入った浅野忠吉により築城が開始されたが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。  その後、紀南の要の城として再建を許可され、同四年(1618)、浅野忠吉は再び築城に着手する。  元和五年(1619)、徳川頼宣が紀州に入国し、付家老として派遣された水野重仲が新宮に入り新宮藩が 誕生すると、  重仲は築城工事を再開し、寛永十年(1633)、二代城主重良の時に城が完成した。 」  

城の北側は熊野川に面していて自然の要害で、城への登城口は南側になる。 
駅から向かうと東口に到達するが、西口が旧大手口で、大手の西隣には旧二ノ丸跡(現保育園)の石垣も残るので、 ぐるっと回って、西側の入口へと向った。 

 「 正保年間の製作の「紀伊国新宮城之図」には熊野川に突き出た新宮城の縄張とその城下町が描かれている。 その絵図によると、城山には天守台と本丸、分離した出丸、鐘ノ丸、松ノ丸があり、 西側の山麓には二ノ丸(上屋敷)や下屋敷などが配され、 また、水ノ手の船着き場まで上下連郭式に配置され、現状とほぼ同様の構造が描かれている。  正保年間(1645〜1648)に諸藩が幕府に提出した正保城絵図の「紀伊国新宮城之図」には、 寛文七年(1667)、三代目水野重上が東西百八十間(約324メートル)、南北百十間(約198メートル)、 周囲五百四十間(約972メートル)に拡大工事を行った。  北側は熊野川に面し、南側には東西七十五間(約135メートル)、南北四十五間(約81メートル)、 深さ一間半(約3メートル)の堀が造られた。 
古い絵図等には天守閣、櫓、門、土塀が描かれているが、 明治維新後の取り壊し令により全て失われてしまった。 
現在は幾度もの地震等災害を乗り越えてきた石垣が往時を偲ぶ貴重な遺構となっている。 

城跡大部分は丹鶴城公園として整備されている。 
石垣に沿って東へ行くと、二ノ丸の端に少し奥に行く階段がある。  ここが新宮城跡の大手口で、冠木門が造られている。  ここには新宮城の歴史、縄張図が記された案内板が建っている。  山上全体が石垣で囲まれた要塞と化しているように思え、 城の下には鉄道が通っていることが分かった。 
階段を上がるが、このあたりは江戸時代には坂道だったといい、 その先に大手道時代の古い石段が一部残るという。  大手道右側の広場の周囲には低いながらも石垣で覆われているが、 この石垣は上の鐘の丸の石垣の下部だろう。 

 「 明治時代に城跡は売りに出され、 二の丸跡は新興宗教の敷地になった。 今は系列の幼稚園になっている。  二ノ丸は東西三十二間(約58メートル)、南北二十八間(約50メートル)で、 西側の山麓にあり、浅野氏の時代は三ノ丸だったが、 水野氏の時代には二ノ丸(上屋敷)となり、大手道が北側から松ノ丸へと通じていた。 また、道路を挟んだ現在の市街地(NTT跡)には下屋敷があった。  保育園の廻りの壁は花崗岩による石垣と土塀。  隅石は算木積み、それ以外はほぼ切込み接ぎである。 

元の大手道は幼稚園のある二ノ丸からだったが、私有地なので、 かっては山だったところに道が出来たようである。   その先は昔の階段で、高さ、幅がそれぞれ異なる登りづらい石段である。  途中で道は折れ曲がり、壁も石垣に変わり、階段を登り切ると大手門跡へ出た。 
正保城絵図によると、この小さな入口付近に小さな門があったようで、 枡形虎口になっている。 門や枡形は小さいが、しっかり切り込まれた長方形の石が隙間なく積み上げられていた。 
その先にあるのは松ノ丸で、鐘ノ丸の西側に付属し、虎口跡が残る。 
また、熊野川沿いに広がる水の手曲輪への道がある。 
松の丸の奥の石で囲まれた、右奥へ降りていく坂道が水の手への道で、 正保城絵図にはこの降り口にも小さな門があったようである。  水の手道はかなり急で狭い。 
坂道の途中には石垣の残骸のような場所もあり、道が逆S字に折れ曲がっている。 正保城絵図には松の丸から水の手へ向かう道はただの山道のように描かれているが、 実際は水の手(港側)から攻めこまれた際に対応できるよう堅固に守られていた筈である。  道を下っていくと階段の向こうに石垣のような場所が見えてきた。  ここが水の手の入口で、奥に階段があり、下の熊野川沿いまで降りられる。  その手前に水の手曲輪の案内板があり、ここからは水の手曲輪と熊野川を一望でき、 石垣と緑が美しい。 
右側に備え付けられた階段から水の手曲輪へ降りる。  江戸時代、水ノ手曲輪には北側の熊野川に面した船着き場があった。 

 「 発掘調査で、十三棟の炭納屋群跡が発掘され、 水野氏の時代に藩の専売品の備長炭を江戸の市場に送り財源を得る拠点(倉庫兼港)だったことが確認された。  近世城郭の機能としては異質の経済的側面の強い遺構が確認されたことは、近世幕藩体制化の領主権力の 経済的基盤を考える上で重要な発見であるとして、平成十五年に国の史跡指定をうけた。 」 

階段を降りて見返すと、先ほど居た場所の下にも三段の石垣で壁が構築されていた。  表面を整えた打込み接ぎと丸いままの石を積み上げた野面積みが混在している。  また。石積みによる水路跡もしっかり残っている。 草に埋もれた石段を降りて行くと石畳の船着場があったようである。  草に覆われよくわからないが、洪水などで大水が発生しても流出しないよう五メートルの石垣が築かれていたという。  道沿いには案内板のとおり、炭納屋跡と思われる石積みによる区画が残っていて、 黒いのは炭粉とのこと。 
松の丸まで戻り、正面の虎口から鐘の丸へ向う。 
鐘ノ丸は本丸の南西部にあり、東西四十二間、南北二十二間の巨大な曲輪である。  浅野氏の時代には二ノ丸だった曲輪で、江戸時代には合図の鐘や太鼓を打つ場所になっていた。  鐘の丸の枡形虎口のあたりの石垣はきれいに整形された石材が横一列にに積み上げられていて、 切込み接ぎ布積みと呼ばれる高度な手法で構築されている。  正保城絵図には枡形虎口をから本丸に入るところに城門が描かれているが、 礎石などは確認できなかった。 
鐘の丸から本丸へ向かう部分は庭園になっていて、 池に架かる石橋を渡って本丸へ向かう。 
石垣の上に建っている土蔵風の建物はトイレである。  本丸はケーブルカーがあった時代にかなり改変され、 庭園や天守台に直接登る階段ができていたりする。  ここから熊野川を見下ろすと、先程の水ノ手が一望できる。  炭納屋および港の状況が上からしっかり監視できるというわけである。  本丸の奥へ向かう石段は細かく曲がって複雑な構造となっているが、 ここが本丸正面虎口で、長方形に切り出された巨石が積み上がている。  正保城絵図によるとこのあたりに城門があったようである。  本丸虎口正面の石垣は複雑な組み合わせパズルのようで、 右側には古い石段のような形をした場所もある。 
本丸の右側の凹みは先ほど上がってきた本丸虎口で、 右奥の石段風の部分が見える。  左側の門のような形をしたところは藤棚風の休憩場所になっている。  本丸は城郭の中心として北東の最高地点、標高約六十メートルにあり、 東西百八十間(約324メートル)、南北百十五間(約207メートル)である。 
本丸右奥(北面)には搦手の枡形虎口があり、高い石垣に囲まれた堅固な姿だが、 その先にはフェンスがあり、通行不能である。 
搦手口の虎口内の石垣の隅石は縁取りはきっちりと揃えて平らに加工し、 中央部は粗いまま残すというちょっとおしゃれな技法になっている。 
搦手口をあがったところには昭和六十年(1985)に建てられた「丹鶴姫之碑」の石碑がある。 

 「  丹鶴姫は鎌倉時代の人で、ここ丹鶴山に東仙寺を築いたが、 江戸時代に城が造られた際、寺は移設された、とのこと。 」  

本丸の南端の奥の飛び出た部分に天守台が設けられ、 三層五階と推定される天守閣があったといわれるが、 天守台の石垣は昭和二十年代に崩壊している。   現在は石垣は修復され、石段がついているが、 これらはケーブルカー時代に工事されたのかも知れないと思った。 

 「 昭和五十八年(1983)、天守台のあった石垣の下に、 江戸千家を創始した茶人である川上不白の顕彰碑が建立された。 不白は享保四年(1719)に水野氏の家臣のもとに生まれ、 碑には不白が好んだという「清風生蓬莱」の文字が彫られている。   天守台の手前左側にあるのは村井正誠の揮毫による与謝野寛の歌碑で、 昭和六十一年(1986)に建立された。 )  

出丸は本丸の左奥(北西)に突き出た長方形の別曲輪で、 熊野川や水ノ手を見下ろす位置にあり、 本丸側に面して入口の石段が見られる。  浅野氏の時代には本丸とつながり、その間に城門があったので、 正保城絵図にはここに門が描かれ、出丸へ抜けられるようになっているが、  水野氏の時代には完全に切り離され、下にいけなくなった。 
本丸側の石積みには橋を架けた部分を埋めた改修の跡が認められる。  天守台の先端の周囲の石垣風の土塁は近年のものだろう。 
天守からは海上の監視ができ、逆に船上からは天守が熊野灘航行の目印となったとか。 
帰りは東口に出る道を歩いたが、これは江戸時代にはない道で、降り切ると駐車場のところに出た。 

所在地:和歌山県新宮市新宿9691−1   
新宮城跡はJR新宮駅の北北西へ八百メートルにある。  JR紀勢本線新宮駅から徒歩10分  
新宮城のスタンプは阿須賀神社近くの新宮市立歴史民俗資料館(新宮市阿須賀1丁目2−28 9時〜17時 月休 年末年始休み  電話: 0735-21-5137 ) にある。 





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かうんたぁ。