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松山地区まちづくりセンター | 森野旧薬園 | 宇陀市歴史文化館「薬の館」 |
ここから三百メートル行くと右に入る道があり、「春日神社参道」の石柱が建っている。
少し歩くと右側に石垣があり、右に登る石段がある。 この石垣が春日門の一部だろう。
石段を上ると踊り場になっていて、右に「春日門跡」の説明板があり、左手には春日神社の鳥居が建っていた。
説明板「春日門跡」
「 春日門跡は松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置する。
現在、門跡には虎口(出入口)を構成する東西二つの石垣積の櫓台が残っている。
東櫓台は東西約四メートル以上、南北十メートル以上、高さ六メートルの規模を持つ櫓台の南西隅に一段低く、
東西約四メートル、南北約七メートル、高さ約二メートルの櫓台が取り付く。
西櫓台は東西約六メートル、南北十一メートル以上、高さは約四メートルである。
春日門は十六世紀末から十七世紀初頭に築造された。
松山城下を建てる時に町人地と武家屋敷、城館とを分ける虎口として造られた。
また、現存する櫓台は十七世紀後半の宇陀松山藩時代の向屋敷、上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築である。
築城当時の春日門は現在とは異なり、南北約十・五メートル、
東西四メートル以上の東櫓台南端の西に付け櫓が付く構造だった。
西櫓台は現在と同じ規模、構造と思われる。
門は東櫓(付け櫓)と西櫓の間と、櫓間を通り抜け、左折した所の二ヶ所に位置したと考えられる。
この段階の春日門は東櫓は大手筋を貫いた視線が集中する位置にあり、
櫓台の規模の大きさから松山城下町の象徴的な建物だったと思われる。 」
左手の鳥居をくぐって登って行くと、広場があり、その先の小高いところに春日神社がある。
春日神社へ登る鳥居の右側には小さな道があり、「史跡宇陀松山城跡」の大きな石柱が建っていて、
ここを進むと松山城の本丸方面に行ける。
訪れた時、そこには「台風により道が崩壊して復旧の見込みはないこと、
松山地区まちづくりセンターの脇の道で登城するように」との立て札が建っていたので、
先程来た道を歩いて、まちづくりセンターまで戻った。
春日門櫓石垣 | 春日門跡 | 宇陀松山城跡石柱 |
千軒舎の裏手にある登城道は専用の自動車道である。
少し歩くとあと600mの標示柱があり、百メートル毎に設置されていた。
道の両側は杉林に囲まれていて、道脇には歩道もあるのかもしれないが、雑草に覆われていて確認は出来なかった。
残り二百メートルの標柱のところの左側に駐車場があり、その上に「史跡宇陀松山城跡」の説明板がある。
「 宇陀松山城は南北朝以来、宇陀郡の有力国人秋山氏の本城として築かれた。 天正十三年(1585)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴う秋山氏の退去後は、豊臣家配下の大名の居城として、 改修、整備が行われ、大和郡山城、高取城と並ぶ大和国支配の拠点となった。 しかし、関ヶ原合戦の後入封した福島高晴が、元和元年(1615) 大坂の陣直後に改易されたことにより、城は取り壊された。 この城割役を担ったのは小堀遠州と中坊秀政である。 (以下略) 」
少し急な左右にカーブする道を上ると、左側に春日神社からの登城道があり、ここにも通行禁止と立て札が建っていた。
その先には「史跡宇陀松山城跡」の説明板があり、あと百メートルで城跡の標柱があった。
説明板の内容は先程のものと同じだが、先程の続きを記すと
「 平成七年(1995)から発掘調査が行われ、大規模な石垣や本丸御殿跡などが見つかり、
織豊期から江戸初期にかけて、壮大な城郭の姿が明らかになり、平成十八年(2006)七月に国の史跡に指定された。 」 とある。
登城道 | 残り二百メートル地点 | 残り百メートル地点 |
その先の道は両側は林で、堀割のように切裂いた狭い道である。
そこを出ると、両側は土塁で囲まれ、左側の土塁の下には深い横堀が西側斜面を断ちきっていた。
その先は石を敷いた道で、正面の土塁の下には二段の石垣があった。
土塁の下に石積み(石垣)があるが、廃城前には今と違う風景だったと思われるが、どうなのだろうか?
狭い道 | 横堀 | 石垣がある土塁 |
本丸は山頂にあり、東に天守曲輪、西に本丸を置き、
天守曲輪の東端には天守台があり、本丸は西と南に虎口を開く縄張になっていた。
入口付近には虎口跡と思える石垣があり、中に入っていくと、
本丸跡の中央より右手に「奈良県景観資産 大峰山脈が眺望できる宇陀松山城跡」の看板があり、
そこからは山々が見通せた。
ここには「本丸」の説明板がある。
「 本丸東西五十メートル、南北四十五メートルの広さを有する城内最大の郭である。 西辺の中央に十五メートルX十メートルの張り出しを持つ。 本丸上には対面、接客などの儀礼空間としての本丸御殿「表向屋敷」が建つ。 本丸御殿は広間を中心に遠侍、家臣溜、書院、台所の五棟の殿舎からなり、 全体の規模は東西二十間半、南北十二間半だった。 城割時に投棄された瓦の出土状況から、本丸御殿は桧皮ないしは柿葺きと推定される。 また、本丸周囲の石垣沿いには瓦葺きの多門櫓が連なり、 北西隅を除いて全周し、途中西虎口、南東虎口の二つの門とも繋がり、 強固な防衛ラインを形成する天守櫓への虎口は二ヶ所確認されている。 そのうち、北側の虎口は石垣積の付櫓を構築する格調あるものとなっている。 」
本丸の南下は帯曲輪跡で、かっては東に大御殿があった。
「 大御殿の南東に堀切を通路とした虎口があり、その先にあったのが二の丸で、端に櫓台が付く。
しかし、近年の大雨により土砂崩れが発生し、曲輪の一部が大幅に崩落してしまったようで残念である。 」
本丸の東に見えるこんもりと盛り上がった部分が天守曲輪跡である。
少し盛り上がった丘のように見えるが、左手前は少し張り出している。
登っていくと「天守郭」の説明板が立っていた。
説明板「天守郭」
「 天守郭は東西四十メートル、南北十二メートル〜二十メートルの規模があり、
南、北辺の中央東側に巾七メートル〜十二メートルの張り出しを持つ。
天守櫓上にはいわゆる天守に相当する多重の建造物が存在したと思われる。
その場所は南北の張り出し部から東側の方形区画と考えられる。
この方形区画部分は復元規模が南北十二メートル(間口6間)、東西十メートル〜十一メートル(奥行5間〜5間半)で、
小規模な天守(三重天守等)には相応した広さを有する。
また、南北の張り出した上には天守との連絡が可能な付櫓が建ち、
その西側には城主の日常の居住空間である奥向屋敷の建物群が構えられていたと思われる。 」
本丸跡 | 本丸案内板 | 天守曲輪 |
所在地:奈良県宇陀市大宇陀春日、捨生など
近鉄榛原駅からバスで約15分、道の駅のある「大宇陀バスセンター」で下車、徒歩約15分
宇陀松山城のスタンプは松山地区まちづくりセンター千軒舎(宇陀市大宇陀拾生1846 735-21-5137 ) の受付にある