続日本100名城 (165)  大和郡山城(やまとこうりやまじょう)






近鉄郡山駅で下車し、バスターミナル前を北上すると右側に三の丸会館があるが、 この辺りはすでに大和郡山城の領域である。 

「 大和郡山城は、天正八年(1580)、筒井順慶が織田信長の援助を得て大和国守護となり、 郡山城に入城、大和国唯一の城郭として築城を開始する。  同十三年に入部した豊臣秀長(秀吉の弟)によって本格的に整備された。  豊臣秀吉の弟、秀長による郡山城は、本丸の他、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等、 多くの曲輪が普請された。  このように大規模な城郭になったのは、豊臣秀長の居城としての目的の他、 羽柴秀吉のいる大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。
文禄四年(1595)に入部した、増田長盛(豊臣秀吉の五奉行の一人)による外周が 五十町十三間(約5.5q)の外堀普請で 完成した城郭の形状は現在までその姿を良好に保っている。 
関ヶ原の戦い後、一時在番支配になるが、大坂・京都に近い要衝として幕府に重視されて、 元和元年(1616)に復興。 水野、松平、本多といった譜代大名が相次いで城主を努める。  元和五年(1620)に、備後福山に転封となり、代わりに松平忠明が入城する。  松平忠明は、二ノ丸屋形の造営をはじめ、伏見城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門などが移築された。 
享保九年(1724)、甲斐国甲府から柳沢吉里が十五万石で入部する。 以降幕末まで安定した治世が続き、 江戸時代を通じて、大和国の政治、経済、文化の中心地として繁栄した。 
安政五年(1858)、郡山城二の丸付近から出火し、 住居関係の建物群は全て焼失するという大火にみまわれ、 再建に着手したが、明治維新を迎えたため、修復は中止となった。 
明治六年(1873)、郡山城は破却され、建物は全て取り壊された。 」 

三の丸会館は郡山城の三の丸の頬当門が建っていたところとされる。
三の丸会館の先の交叉点を渡ると右側の石垣前に「柳御門跡」の石碑が建っている。 
柳御門は城の表玄関をなす門で、道の左側には三の丸緑地という公園がある。 
石垣に登ると下に見える堀が三の丸を守る大手掘で、 大和郡山市役所の反対側の道には大手掘に架かる大手橋の欄干がある。 
緑地の中を歩くと左手は蓮池跡で、車道に出ると左折して近鉄の踏切を渡る。 
右にカーブする坂があり、右側の石垣の下に「鉄御門跡」の石碑が建っている。 

柳御門跡
     大手掘      鉄御門跡
柳御門跡大手掘鉄御門跡



江戸時代には鉄御門(くろがねごもん)をくぐると、二の丸であった。 
「鉄御門跡」の石碑の先、松の坂に阿波野青畝の 「 十五万石の城下へ 花の坂 」 という句碑があった。 
道の左側には奈良県立郡山高校の建物が続き、閉まった門の前に「表門跡」の石碑がある。 
この一帯は松平忠明が整備した二の丸屋形跡である。

「 二の丸屋形は城主の居館と藩の政庁があり、巨大な御殿群を形成していたといわれ、 東側は藩庁の表向、西は藩主の私邸奥向きになっていた。 」

「表門跡」の石碑は郡山高校の表門がかってここにあったことを示すもので、 その右側に森口武男の「金魚とねこ」という童謡の詩碑がある。 
表門跡を過ぎると左側に高校の正門があるが、右側には柳澤神社の鳥居が建っている。 
鳥居をくぐると両側は城の内堀で、その先に「竹林橋跡」の石碑がある。 

表門跡
     鳥居      竹林橋跡跡
表門跡柳澤神社の鳥居竹林橋跡



そのまま直進すると、左側に柳澤神社の社務所、右側には「白澤門跡」の石碑がある。 
石段の先に柳澤神社の社殿があるが、 ここには「祭神 旧川越城 甲府城主 柳澤美濃守吉保公」の石碑が建っている。 

「 柳澤神社は、本丸跡に明治十三年に旧藩士により創建された神社で、 五代将軍綱吉の側用人、柳澤吉保が祭神である。 」

社殿の左側に、昭和天皇が詠まれた
 「 天地の神にぞ祈る 朝なぎの海のごとくに 波立たぬ世を 」 
の歌碑が建っている。
その先には小さな祠が祀られていて、そこを過ぎると天守台がある。 

「 本丸の北端部にある天守台は、 平面形が上面で約16X18b、基底部で23X25bの南北に長い長方形で、高さは約8.5b。  南側に高さ約4.5bの付櫓台が取りつく複合式の形態である。 
石垣は野面積みで、自然石の他に石仏や礎石、墓石などの転用材が多く用いられている。  天守に関する史料がほとんど存在しないため、実態は不明な点が多く、“幻の天守”ともいわれてきた。  石垣の解体修理の際実施した発掘調査で、礎石列や金箔瓦が出土し、 豊臣政権期に1階が7X8間規模の天守が建っていたことが判明した。  」

柳澤神社
     昭和天皇歌碑      天守台石垣
柳澤神社昭和天皇歌碑天守台石垣



天守台は標高八十二メートルで、展望がよく、若草山、春日原生林、東大寺、興福寺、薬師寺、 唐招提寺などの世界遺産、生駒山や葛城山などが遠望できる。 
天守台を降り、裏側に行くと逆さ地蔵があった。

「 天守台を築く際、大和には石材が乏しかったため、墓石や石仏が使われた。
天守台北面石垣の築石として、石組の奥に逆さになったままの状態で 積み込まれているために、逆さ地蔵と呼ばれている。  仏身は約90センチで、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、大永三年(1523)癸末七月十八日の刻銘がある。  いつのころか信仰を集め、供養のために五輪塔や石灯篭が立てられ、 また、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。  天守が倒壊したのは逆さ地蔵の祟りといううわさもある。 」  

柳澤神社の社務所まで戻り、公衆トイレの裏にある極楽橋を渡ると、柳沢文庫がある。 

「 ここは毘沙門郭の跡で、柳沢文庫は、昭和三十五年に開設された資料館で、 柳沢家から引き継がれた史料や書物が展示されている。 」

続日本100名城の大和郡山城のスタンプは受付に置かれている。

天守台からの展望
     さかさ地蔵      柳沢文庫
天守台からの展望さかさ地蔵柳沢文庫



柳澤神社の鳥居まで戻り、右折してすすむと右側に「中仕切門跡」の石碑があり、 道の反対、左側には「松陰門跡」の石碑があるが、江戸時代には、その左手に松陰郭があり、 その先に城への入口である南門があった。 
「南御門跡」の石碑を過ぎ、堀の外にでると柳澤家の菩提寺・永慶寺がある。 

「 永慶寺は黄檗宗の禅寺で、柳沢吉里が甲府から国替えの時、当地に移築したという。  山門は明治六年(1873)、郡山城が破却された時、城門を移築したものである。 」

中仕切門跡まで戻り、中に入っていくと左手は空地になっているが、ここは新宅郭の跡地である。 

「 新宅郭は緑郭とも呼ばれていたが、本多忠平時代にはその名前があるので、 古くからあったと考えられている。 」

右側の樹木越しに、堀の先にある本丸の石垣が見えた。 しっかりした石垣である。
少し行くと「五拾間馬場跡」の石碑が建つが、このあたりだけ土地が堀側にせり出していた。 
道の左側一帯は御厩郭跡である。 

「 御厩郭はもともとは新宅曲輪だったが、 松平忠明時代に別の場所にあった厩を新宅郭の北半分に移し、厩二棟と馬場を設けた。 」

その先に大きなモチの木があり、道は右にカーブ。 その先に「馬場先門跡」の石碑がある。 
江戸時代、新宅郭と厩郭の左手に松陰池があり、その左側に麒麟郭が建っていた。 

「 麒麟郭はもとは西の丸と呼ばれていたが、柳沢氏以降に麒麟郭に改名された。 
柳沢吉保が徳川綱吉から麒麟の書を与えられたことから、柳沢吉里が命名した、と言われている。」

中仕切門跡
     永慶寺      馬場先門跡
中仕切門跡永慶寺山門馬場先門跡



カーブする道が終わると広場があるが、左側の緑地が「玄武郭跡」である。 

「 玄武郭は、もとは納戸郭と呼ばれていたが、柳沢氏以降に玄武郭に改名された。  硝煙蔵が五棟建ち並び、西側には玄武門が建っていた。  」 

玄武郭の先には明治の館という城址会館が建っているが、 これは奈良県立図書館だった建物で奈良市から移設されたものである。 

「 この建物は、明治41年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内に建てられた 奈良県最初の県立図書館で、建設当初は奈良県立戦捷記念図書館と称していた。  設計は奈良県技師の橋本卯兵衛によるもので、昭和43年(1968)にここに移築された。  この建物は木造ニ階建て、入母屋造、千鳥破風付きの主棟と、その両側に平屋建て、 切妻造の翼部を配した左右対称の構成をとっている。  外観には奈良時代から鎌倉時代の建築意匠が多く採用され、 内部には胴張りをもつトスカナ式の柱などの西洋の意匠が使われ、 小屋内にはトラス構造により補強されている。  近代において復古的な意匠で設計された和風建築で、 木骨構造を基本としながらも、和風の外観と擬洋風の内装を施した建物である。    数少ない明治期の公共建築物として貴重なものである。 」

城址会館の前に、森川許六の  「  菜の花の 中に城あり 郡山 」 という句碑が建っていた。 
城址会館の南には、小野十三郎の「ぼうせきの煙突」という詩碑がある。 

玄武郭跡
     城址会館      詩碑
玄武郭跡明治の館・城址会館小野十三郎の詩碑



城址会館の裏側に廻ると、右手にあるのが昭和五十九年(1984)に復元された追手東隅櫓である。

説明板「追手東隅櫓」
「 追手東隅櫓と名を変えたのは柳澤氏が入城後で、 それまでは法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)と呼ばれていた。 
豊臣秀長が入城した天正十一年(1583)に筆頭家老で五万石を拝領していた桑山一奄法印良慶の屋敷が この曲輪に構築されていたので、この曲輪を法印郭(曲輪)または一奄文と呼ぶようになった。 
古絵城図によると、櫓は二重で、下重が二間五尺に三間二寸五分、上重が二間二尺に二間五尺。 郡山城の五つの櫓の中では一番小型に属する。 窓が五つ、石落としが二ヶ所、鉄砲狭間が六ヶ所設けられた。 」 

追手東隅櫓の周囲を見てから、城址会館の前に戻ると小さな池があるが、 これは高台なのに水を切らさぬ池という。 
近くに、山口誓子の句碑があり、

 「 大和また 新たなる国 田を鋤けば 誓子 」 

と刻まれていた。 
右側にに「久護門跡」の石碑があり、梅が多く植えられている。 
本丸入口の追手門は豊臣秀長時代に建てられたが、関ヶ原の戦い後、伏見城に移された。

「 元和四年(1618)、 松平下総守忠明が十二万石で郡山城主になった時、 家康の命令で、伏見城に移されていた諸門が郡山城に戻された。 
その際に、追手門も戻された。 当時は一奄丸門と呼ばれていたが、柳澤良里により梅林門と名を変えられた。 
明治維新により廃城となり、すべての建物が壊され、追手門も消滅した。 」

現在の追手門は昭和五十八年(1983)に復元されたものである。 

追手東隅櫓
     久護門跡      追手門
追手東隅櫓久護門跡追手門




所在地:奈良県大和郡山市城内町2  
近鉄橿原神宮線大和郡山駅から徒歩約15分  
大和郡山城のスタンプは柳沢文庫受付にて  



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かうんたぁ。