続日本100名城 (163) 黒井城(くろいじょう)
黒井城は兵庫県丹波市にあった城で、別名は保月城(ほげつじょう)、保築城(ほづきじょう)といい、
約二百五十年間続いた山城である。 大河ドラマで明智光秀が丹波攻めで難航していたが、
難攻不落の城を包囲したことで、落城させた城として話題になった。
「 南北朝の建武年間に春日部を領有していた赤松貞範が築いたのが始まりとされ、
戦国時代には赤井直正の居城となり、赤井一族の拠点となったが、
天正七年(1579)、赤井直義の時、明智光秀に攻められ落城。
黒井城は織田家の支配下に入り、斎藤利三が城主となり、今日の規模にまで改修した。
山崎の戦いの後、堀尾吉晴が入城し、関ヶ原の戦いの後、
慶長五年(1601)、徳川家康の命を受け、川勝秀氏が黒井城の最後の城主を務めた。
翌慶長六年(1602) 川勝氏は旗本家を興して、江戸詰になっているので、この頃に廃城になったと思われる。 」
城があったのはJR福知山線黒井駅の北方七百メートルにある黒井小学校の北側の猪ノ口山の山頂である。
JRの黒井駅前には城のモニュメントと幼い時の春日局の像が置かれている。
春日局は明智光秀の家臣、斎藤利三の娘で、斎藤利三が城主だった時がある。
小学校近くにはいくつかの寺院があり、小学校の右手にある興禅寺は黒井城の下館跡で、
春日局はここで生まれ、幼少期を過ごしたとされる。
無料駐車場の前に「国指定史跡黒井城跡」の石碑がある。
「 黒井城は標高三百五十六メートルの猪ノ口山の三方尾根伝いに東西約百七十メートル、
南北約四十五メートルの曲輪群を構成し、全山を要塞化した城であった。」
その先に「保月城址登山口」の石碑があり、登城口では黒井城に関する資料が手に入れられる。
道は右の石段の道と左のきれいに整備された道があり、左の道を上るが、けっこう急な道である。
「石踏の段跡」の標板があり、休憩所を兼ねたような赤塗りの山門があり、近くに「城山展望台」の石碑が建っている。
眼下には黒井の町が見下ろせ、丹波らしい、山に囲まれた風景が広がっている。
更に十五分程上って行くと、山頂部の郭跡に到着。
「三の丸跡」の標板がある。
「 三の丸は東西二十八メートル、南北二十三メートルの大きさだった。
石垣の左側が虎口で、二の門跡の石列があり、
城門の礎石は二列が確認できるので、ある程度の規模の門があったと推察できる。
「東曲輪跡」の標板が建っているが、三の丸と東曲輪は「くの字」型をしていて、
後ろの石垣は三の丸の石垣なので、わかりにくい。
矢掛りがかかるように曲輪配置されているが、黒井城の特徴の一つといえる。 」
続いて「二の丸跡」の標板がある。
「 二の丸は東西四十メートル、南北十九メートルの大きさだった。
左側が通路になっているのだが、ここの虎口は二回、直角に折れている。
二の丸は南面と本丸、三の丸側に面した所に石垣が築かれているが、三の丸側の石垣は上部の破壊が進んでいて、
下の部分しか石垣は残っていない。 しかし、崩壊があることから櫓台跡とも推定されている。 」
二の丸から本丸へ左に行くと、二の丸と本丸をつなぐ帯曲輪の石垣がある。
「 ここの石垣が一番残りが良く、見ごたえのある立派な石垣である。
その先にあるのが本丸で、東西四十八メートル、南北二十二メートルと一番広い。
本丸には建物が建っていた跡があるというが、
保月城址の石碑が建っていて、黒井城の名前は出てこない。
地元では保月城の名で呼ばれていたということであろう。 」
本丸の南面と二の丸方向を石垣で固め、他は土塁である。
「 石垣は土塁の上に築かれていて、鉢巻石垣と同じ構造である。
登り口東横の石垣の囲まれた部分には天守の礎石とみられる石の配列がある。
なお、主郭部の下には北の丸、石踏の段、太鼓の段、東出丸などの曲輪があり、
これらの曲輪を横に連結させることで、平城でいう外曲輪の役割を果たしていたのだろう。 」
主郭部の北側には北の丸と呼ばれる細長い曲輪がある。
東出丸は土塁の曲輪で、主郭部とは明らかに差がある。
この付近で城内の道が集約される場所なので、防備上重要な場所だったと思われる。
太鼓の段は東出丸と石踏の段のちょうど中間にある曲輪である。
これらの曲輪がほぼ同じ高さで主郭部を囲んでいる。
所在地:兵庫県丹波市春日町多田
JR福知山線黒井駅から登城口まで徒歩約20分、登城口から山頂まで約20分〜50分
黒井城のスタンプは駅北口を右に5分程行くと市役所春日庁舎があり、
その裏の春日住民センター(春日町歴史民俗資料館 8時30分〜22時 12/29-1/3休み) にある
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