続日本100名城 (162) 出石城・有子山城






出石城

出石城(いずしじょう)は関ヶ原の戦い後にその麓に館と郭が造られた平山城である。 

「 出石城(いずしじょう)は、 有子山の麓に築城された梯郭式の平山城である。
城域は東西約四百メートル、南北約三百五十メートルで、東西の斜面に竪掘、 西側に蓮池、城の周囲に水堀と土塁を巡らせ、 最上段の稲荷曲輪から下に、本丸・二の丸・下の曲輪と階段状に曲輪を配置し、 脇を西の曲輪と山里丸、平地部分の三の丸で、城を構成していた。
更に重要な三御門(大手門・東門・西門)は枡形虎口で、防御を固めていた。 
本城は吉英の時代にほとんど完成しているが、 松平忠周(忠徳)が三の丸に対面所を建てて、 本丸と二の丸にあった藩主御殿と藩政機関を移した。 
明治元年(1868)に建物はすべて壊されたが、本丸跡に庭園が残られている。
本丸跡に明治期に建てられた感応殿がある。
昭和四十三年(1968)に本丸東西に隅櫓が建てられた。
平成六年(1964)、登城門と登城橋が架けられた。 」

「出石城跡」の説明板がある。

「  出石城は慶長九年(1604)に小出吉英によって山頂の城を廃して築いたもので、 一国一城制による但馬唯一の城である。 
平山城に分類される梯郭式といわれるように、 有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸 と、梯子を立てかけたように城を築いている。 
東には山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周囲には山から堀切で水を引き、 内掘をめぐらせ、北に大手門、東西に東門、西門を設けて要害とした。 」

以下、施設の概要を紹介する。

◎ 登城門・登城橋
かってはこに埋門があった。 江戸時代にはここに谷山川は流れていなかったので、 橋もなかった。 

◎ 二の丸・本丸西隅櫓

二の丸には出石藩の藩庁が建ち、本丸の城主御殿と渡櫓で連結していた。
元禄九年(1696)、松平(藤井)忠周が入城すると、三の丸に対面所を建設し、 藩庁が移されたため、正月の行事などが行われるのみになった。
隅櫓は、二の丸に東西、そして、本丸の東に建っていたが、 現在ある本丸西隅櫓はなく、そこには多聞櫓が建っていた。 
現在の隅櫓は昭和四十三年(1958)に市民の寄付で建築された模擬建築である。

◎ 本丸・感応殿

二の丸の上にあったのが本丸である。
築城時、城主御殿が建てられた。 対面所が造られた後は城主の居所がそこになったので、使用されなくなったが、明治元年に壊されるまで残されていた。
現在は庭園が残っているほか、隅櫓、感応殿が建てられている。
本丸跡に仙石家の旧臣達により、明治期に感応殿が建てられた。
昭和二十三年に復元され、 中には藩主仙石家の祖・秀久の木像が安置されている。
感応殿の前に「出石そば発祥の由来」の碑が立っている。
当地の名物、出石そばは小皿に盛られたそばを食べるものだが、起源は信州小諸である。 
小諸藩主だった仙石氏が信州からそば職人を招いたのが始めといわれ、出石には多くのそばやがある。 

登城門・登城橋
     二の丸・本丸西隅櫓      本丸・感応殿
登城橋・登城門
二の丸 (奥)本丸西隅櫓
(左)本丸東隅櫓(右)感応殿



◎ 稲荷曲輪の高石垣

本丸の奥にある稲荷曲輪石垣は、但馬地方で最大規模を誇り、高さ13.5mである。
小出吉政が築城した当時のもので、土木技術の高さがうかがえる。

◎ 稲荷曲輪・有子山稲荷社

城内で一番上にある曲輪である。
ここに建つ有子山稲荷社は、小出吉英が城内鎮護のために有子山城の稲荷社を移したもの とも、旧領岸和田の稲荷社の分霊を勧請したものともいわれる。 
現在の社殿は江戸後期に建築されたものである。

◎ お城坂(稲荷参道)

江戸時代、最上段の有子山稲荷社への参道であった。
明治期に157段の石段と37基の鳥居が整備された。

稲荷曲輪高石垣
     稲荷曲輪・有子山稲荷社      お城坂(稲荷参道)
稲荷曲輪高石垣
稲荷曲輪・有子山稲荷社
お城坂(稲荷参道)



◎ 諸杉神社

三の丸のお城坂の左手にある神社で、祭神は但馬の開祖、天白槍の子の但馬諸助である。  
延喜式内の古社で、守護山名氏が此隅山より有子山に居城を移す時、現在地に移転させた と伝えられる。 歴代城主の崇敬を受けた。
現在に建物は明治十七年に竣工した。

◎ 家老屋敷

日本三大御家騒動の一つ、仙石騒動で知られる出石藩大老・仙石左京の屋敷跡。
現在の建物は隠し二階がある上級武士の居宅が移築されている。
屋敷門に続く塀の先にある石垣は出石城の西門跡である。
この石垣南側に、南北を向く形で、門があった(枡形虎口)。
ここから東門までは三の丸で、一直線に道があった。 

◎ 大手門跡と辰鼓楼

城の各入口(東・西・南)は枡形虎口で、防御していた。
三の丸跡には「出石城大手門跡」の石碑があり、その上にあるのは時を知らせる辰鼓楼である。 
明治四年(1871)に三の丸大手門石垣を利用して建設された。 
高さは約20mで、太鼓で時を知らせていた。
明治十四年(1881)に、大時計が取り付けられた。 
現在、電気式に変えられ、一日二回に太鼓の音で時を告げている。

諸杉神社本殿
     家老屋敷      辰鼓楼
諸杉神社本殿
家老屋敷
大手門跡と辰鼓楼






有子山城

有子山城(ありこやまじょう)は戦国時代の山城である。
有子山城は此隅山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている。

「 但馬国守護の山名祐豊は、此隅山城を居城としていたが、 羽柴秀吉による但馬遠征で落城し、天正二年(1574)、新たに標高三百二十一メートルの有子山に築城して、移った。 
この城は山名氏分家の鳥取城と同じく、山頂付近に天守(詰の城)が、 山麓に平常時住まいする居館および但馬守護所(郭)が設けられた。 
山名堯熙は毛利氏方についたため、天正八年(1580)、 羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城し、但馬国守護の山名氏は滅亡。 
以後、豊臣時代は城代の時代を経て、前野長康、小出吉政が城主となる。 
関ヶ原の戦いで、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟の秀家は東軍に分かれて戦ったが、 秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵された。 
慶長九年(1604)、小出吉英は、「 有子山城の山麓の館および郭のみを出石城として築城し、 有子山城の山上の丸および天守部分は廃した。 」 と、幕府に届け出た。
この工事により、有子山城の名は廃され、 新たな名となった出石城は出石藩の藩庁として明治まで続いた。 」

「 有子山の山頂部は徳川政権に気を使い、荒れるままに放置された。 」 と、いうが、地元民の努力で遊歩道が整備されている。  といっても、一寸した山道である。 

「  頂上までに堀切や段曲輪があり、頂上付近には郭がいくつかあり、石垣が残っている。 
主郭は東西四十二メートル、南北二十メートル、石垣は高さ四メートル、 長さは二十メートル以上ある。 
井戸曲輪までの登城道は今は通行不能で、かっては竪掘であった、谷の道を進むようになっている。
づーと岩がむきだした急坂で、途中、トラロープを上るところもある。 まさに、ちょっとした登山である。
井戸曲輪を過ぎると石垣がある曲輪が上に繋がっていて、主郭に至る。
この時代の石垣はシノギ積み(鈍角に曲げられた石垣)で、算木積みではない。
本郭は東西四十二メートル、南北二十メートル、現在は説明板と休憩用の日除け小屋がある。
大堀切の先に千畳敷があり、千畳敷は広い削平地で、かっては居館があったことを 示す、医師列や築地塀による区分け跡が残っている。
千畳敷の奥は高台になっていて、櫓台跡とされる。  その下に堀切が通されている。 」

有子山城への片道時間は登山口から40分〜1時間。
トレキング装備で、健脚向きのコースである。

出石城の奥の山が有子山
     有子山登山口      主郭とその下曲輪群
出石城の奥の山が有子山
有子山登山口
主郭とその下曲輪群



所在地:兵庫県豊岡市出石町内町ほか  
JR山陰本線・福知山線豊岡駅・江原駅・八鹿駅から全但バス「出石行き」で約30分 終点で下車し、歩くこと五分程で、登城橋に到着する。 
出石城・有子山城のスタンプはいずし観光センターにある 



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かうんたぁ。