|
◎ 稲荷曲輪の高石垣
本丸の奥にある稲荷曲輪石垣は、但馬地方で最大規模を誇り、高さ13.5mである。
小出吉政が築城した当時のもので、土木技術の高さがうかがえる。
◎ 稲荷曲輪・有子山稲荷社
城内で一番上にある曲輪である。
ここに建つ有子山稲荷社は、小出吉英が城内鎮護のために有子山城の稲荷社を移したもの
とも、旧領岸和田の稲荷社の分霊を勧請したものともいわれる。
現在の社殿は江戸後期に建築されたものである。
◎ お城坂(稲荷参道)
江戸時代、最上段の有子山稲荷社への参道であった。
明治期に157段の石段と37基の鳥居が整備された。
◎ 諸杉神社
三の丸のお城坂の左手にある神社で、祭神は但馬の開祖、天白槍の子の但馬諸助である。
延喜式内の古社で、守護山名氏が此隅山より有子山に居城を移す時、現在地に移転させた
と伝えられる。 歴代城主の崇敬を受けた。
現在に建物は明治十七年に竣工した。
◎ 家老屋敷
日本三大御家騒動の一つ、仙石騒動で知られる出石藩大老・仙石左京の屋敷跡。
現在の建物は隠し二階がある上級武士の居宅が移築されている。
屋敷門に続く塀の先にある石垣は出石城の西門跡である。
この石垣南側に、南北を向く形で、門があった(枡形虎口)。
ここから東門までは三の丸で、一直線に道があった。
◎ 大手門跡と辰鼓楼
城の各入口(東・西・南)は枡形虎口で、防御していた。
三の丸跡には「出石城大手門跡」の石碑があり、その上にあるのは時を知らせる辰鼓楼である。
明治四年(1871)に三の丸大手門石垣を利用して建設された。
高さは約20mで、太鼓で時を知らせていた。
明治十四年(1881)に、大時計が取り付けられた。
現在、電気式に変えられ、一日二回に太鼓の音で時を告げている。
有子山城
有子山城(ありこやまじょう)は戦国時代の山城である。
有子山城は此隅山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されている。
「 但馬国守護の山名祐豊は、此隅山城を居城としていたが、
羽柴秀吉による但馬遠征で落城し、天正二年(1574)、新たに標高三百二十一メートルの有子山に築城して、移った。
この城は山名氏分家の鳥取城と同じく、山頂付近に天守(詰の城)が、
山麓に平常時住まいする居館および但馬守護所(郭)が設けられた。
山名堯熙は毛利氏方についたため、天正八年(1580)、
羽柴秀吉の攻撃を受け、城は落城し、但馬国守護の山名氏は滅亡。
以後、豊臣時代は城代の時代を経て、前野長康、小出吉政が城主となる。
関ヶ原の戦いで、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟の秀家は東軍に分かれて戦ったが、
秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵された。
慶長九年(1604)、小出吉英は、「 有子山城の山麓の館および郭のみを出石城として築城し、
有子山城の山上の丸および天守部分は廃した。 」 と、幕府に届け出た。
この工事により、有子山城の名は廃され、
新たな名となった出石城は出石藩の藩庁として明治まで続いた。 」
「 有子山の山頂部は徳川政権に気を使い、荒れるままに放置された。 」 と、いうが、地元民の努力で遊歩道が整備されている。 といっても、一寸した山道である。
「
頂上までに堀切や段曲輪があり、頂上付近には郭がいくつかあり、石垣が残っている。
主郭は東西四十二メートル、南北二十メートル、石垣は高さ四メートル、
長さは二十メートル以上ある。
井戸曲輪までの登城道は今は通行不能で、かっては竪掘であった、谷の道を進むようになっている。
づーと岩がむきだした急坂で、途中、トラロープを上るところもある。 まさに、ちょっとした登山である。
井戸曲輪を過ぎると石垣がある曲輪が上に繋がっていて、主郭に至る。
この時代の石垣はシノギ積み(鈍角に曲げられた石垣)で、算木積みではない。
本郭は東西四十二メートル、南北二十メートル、現在は説明板と休憩用の日除け小屋がある。
大堀切の先に千畳敷があり、千畳敷は広い削平地で、かっては居館があったことを
示す、医師列や築地塀による区分け跡が残っている。
千畳敷の奥は高台になっていて、櫓台跡とされる。
その下に堀切が通されている。 」
有子山城への片道時間は登山口から40分〜1時間。
トレキング装備で、健脚向きのコースである。
所在地:兵庫県豊岡市出石町内町ほか
JR山陰本線・福知山線豊岡駅・江原駅・八鹿駅から全但バス「出石行き」で約30分 終点で下車し、歩くこと五分程で、登城橋に到着する。
出石城・有子山城のスタンプはいずし観光センターにある