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市役所・岸和田城址碑 | 二の丸広場 | 大手門(楼門) |
土橋の両側は本丸を守る水掘で、右側は多聞櫓が連なり、その先に隅櫓がある。
「 岡部宣勝の頃、城の東側に二重、
西側に一重の外堀と寺町が増築されている。
その後、さらに海岸線が退き、岸和田浜町も整備されて行った。
以後、明治維新まで岡部氏十三代が岸和田藩を統治した。
」
大手門(楼門)をくぐると、左側の石垣の上に、 岸和田藩主であった岡部氏記念碑がある。
「
元和五年(1619)、紀州徳川家が誕生し、家康の十男・頼宣が和歌山城に入城すると、
寛永十七年(1640)には、岡部宣勝(のぶかつ)が六万石(のち五万三千石)で、
岸和田藩主となる。
岡部宣勝が、岸和田城に入城したのは、
紀州の徳川頼宣(よりのぶ)に異心があるとして、
そのおさえのためだったという説がある。
徳川頼宣は浪人を多く召抱え、
慶安四年(1651)の由井正雪の乱ではその関係を疑われた。
ある時、江戸城で、二人が出会った際、宣勝は頼宣から
「 君が和泉に居(お)られるのは、我らのおさえのためだと聞き及んでいるが・・・ 」 と問われたので、
「 大身(たいしん)のあなたをおさえるなど、とんでもないことです。
せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう 」 と答えたという。
紀州藩のお目付役の宣勝は、岸和田藩を飯粒にたとえながらも、小藩の意地を通したもので、
これを聞いた頼宣は唖然(あぜん)としたと伝えられている。 」
そこを過ぎると、天守閣と庭が現れる。
ここは本丸で、その先には小天守と天守閣がある。
「 天守は天正十三年(1585)、
小出秀政を城主とし、秀吉によって城郭整備された時に、
築かれたが、文政十年(1827)に落雷により、焼失した。
以降再建されないまま、
明治四年(1871)に廃城になり、櫓、門などの建物は取り壊した。
現在の天守閣は、昭和二十九年(1954)に建築されたもので、
三層三階建てである。
現在の天守は予算の都合もあり、本来は五層の天守だったものが、三層になり、
外観は史実に基づかないオリジナルのものになった。
江戸時代の五層の天守の高さは石垣上部から十八間(約32.4メートル)だが、
現在の天守は石垣の高さ約五メートル、
石垣上部から鯱を含めた高さが約二十二メートルで
三層の天守閣と二層の小天守閣からなっている。 」
(左)大手門・多聞櫓(右)隅櫓 | 岡部氏記念碑 | 小天守閣と天守閣 |
天守の前にあるのは昭和の名庭師といわれる重森三玲による枯山水、八陣の庭である。
「 昭和二十八年(1953)に作庭された砂庭式枯山水庭園で、
三国志の諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、
中央の大将と先端の天、地、風、雲、鳥、蛇、龍、虎の各陣に石組みが配されている。
平成二十六年(2014)に国の名勝に指定された。 」
天守閣の入口で、入場料300円を払い、中に入った。
入口に続日本100名城のスタンプがあったので、捺印した。
内部では常設展「岸和田藩と岡部家」が展示されていて、
岡部家から委託された品物が展示されていた(室内撮影禁止)
「
岡部氏は今川氏の家臣であったが、桶狭間の合戦で主君今川義元が討たれた後、
武田氏に仕えたが、武田氏も滅亡、徳川家康の家臣になった。
徳川家康の信頼が厚かったようで、丹波国亀山・福知山・美濃国大垣城主などを経て、寛永十七年(1640)に岸和田藩六万石として、入城した。
岸和田は、天下の台所の大坂に近く、大坂湾岸の南の防衛線として、
重要な地であった。
城構えからみても、大坂防衛の役割を担っており、参勤交代でも
岸和田藩主と尼崎藩主がともに国元に不在とならないように配慮されていた。
」
外に出て、水掘の回りを反時計回りに進む。
先程見た隅櫓の先は枡形になって、多聞櫓が堀の南東側の岸和田高校前まで続いている。
下をみると、石垣と堀との間の狭い土地・犬走りがあった。
「 犬走りは地盤の弱いところを補強するためのものである。
犬走り周辺の石垣は平成十一年(1999)の豪雨で崩れ、
今は強度のある花崗岩で補修され、色の違う石垣が見受けられる。
また、補修工事の時に、百数十基の墓石が発見されたという。
年号は永正、天文、永禄等、十六世紀前期、中期のものが多く、
本丸の石垣が築かれたのは永禄年間(1560)以後であることが裏付けられた。 」
重森三玲による枯山水・八陣の庭 | 続100名城スタンプ | 本丸隅櫓・多聞櫓(石垣下)犬走り |
水堀を反時計回りに進むと、右側に大きな駐車場がある。
あぶみ郭(馬出郭)の跡で、江戸時代には薬園があったとされる。
説明板 市指定史跡 「岸和田藩薬園跡」
「 この場所は、岸和田岡部家第9代藩主岡部長慎(ながちか)が命じて作らせた
薬園跡である。 幼い頃、病弱だったとされる藩主のために、
あぶみ郭(馬出郭)であるこの場所に、様々な薬用植物が栽培されていたようである。 こういう背景から、長慎は本草学(今でいう薬学、動植物学、鉱物学) に理解があった。
隠居後、本草学における第一人者であった小野蘭山が行った研究内容を出版する費用
について、藩費で負担している。 こうして出版された「重訂本草網目啓蒙」と
「頭譜」は本草学書としてはじめて日本で広く普及し、本草学の発展に大きく
寄与した。 さらに長慎は隠居後、藩校の講習館を建てるなど、
教育政策にも力を注いだ人物であった。 」
その先右側にある五風荘は岸和田藩主の新御茶屋跡である。
説明板「五風荘」
「 寺田財閥の寺田利吉が、旧岸和田藩主の新御茶屋などに、
昭和12年から3年の歳月をかけて造営した大邸宅である。
建物の延べ床面積は約300坪あり、木造階建てである。
昭和前期、日本建築の職人技術の粋と、
全室空調管理という当時の先端技術を集めた近代和風建築で、
木材は節のない最上質なものが使われている。
本来の正門は北側にある南木門で、
この門は奈良東大寺塔頭中性院から移築したものである。
南木門という名前は、岸和田にゆかりがある楠木氏の楠の文字をもじったものと言われる。
当時の金庫(非公開)が現在も蔵に置かれており、屋久杉の天井、規格外の大きな建具
などに歴史を感じさせる。
五風荘には客人をお茶でもてなす機能と寺田家の居住域機能とがあり、
ハレとケの空間が建物内に表現されている。 」
岸和田高校を通り過ぎると、城の東側にある岸城神社は城の鎮守社である。
鳥居の奥に本殿が見えた。
説明板「岸城神社」
「 岸和田城・三の丸に鎮座し、御祭神は天照大神・素盞鳴尊・品陀別命の三柱。
村・町・浜方三郷を氏地とする岸和田総鎮守。 旧・郷社。 岸和田祭発祥の宮。
天照皇大神は往古より当地の産土神で、
現・境内地は慶長2年(1597)の小出秀政による
岸和田城天守竣工の頃に整備され、厄病退散に神威を発揮する素盞鳴尊(牛頭天王)が祀られると共に、品陀別命(八幡神)も併祀された。
宮寺・日光寺(廃寺)の文書には、素盞鳴尊は正平17年(1362)に京都・感神(八坂神社)
より勧請され、当初は隣邑地域に祀られたとある。
御宮の名称d崇敬された当社は、明治初年に岸城神社と改称。
宮座が現存し、旧暦では6月、8月、11月の13日に、新暦では月遅れで祭祀が営まれる。
例祭は9月15日。 神賑行事として各町から曳き出された地車は、
旧北大手門から城入りし、当社に宮入りする。 」
駐車場(あぶみ郭跡) | 五風荘(新御茶屋跡) | 岸城神社 |
所在地:大阪府岸和田市岸城町9−1
南海本線岸和田駅から徒歩15分
南海本線蛸薬師駅から徒歩10分
岸和田城のスタンプは岸和田城天守閣入口(10時〜17時 入館は16時までに 月休) にて