続日本100名城 (160) 飯盛城(いいもりじょう)





飯盛城は、大阪府大東市と四條畷市にまたがる標高三百十六メートルの飯盛山に築かれた山城で、 飯盛山城とも呼ばれる城である。  河内の支配をめぐり、畠山、三好勢と安見氏の間で戦われたが、その舞台になった。

「 城が最初に築かれたのは定かではない。  南北朝時代の正平三年(1348)、北朝方の高師直が、南朝方の楠木正成の子、正行が本拠とする河内を攻撃するため、 六万の大軍を率いて押し寄せ、両軍が四條畷で戦かったが、 飯盛城はこの頃に臨時の陣城として築城されたものではないかとされる。 
本格的な城の整備は、畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣の守護代、木沢長政に命じて、 城郭を構えさせ、木沢長政が居城とした享禄四年(1531)頃とされる。 
木沢長政は細川晴元に図り、義尭の守護職の座を奪い取ろうとしたため、 天文元年(1532)、畠山義尭は家臣の三好元長と共に飯盛城を攻撃した。 
窮地に立たされた晴元と長政は、山科本願寺の法主証如に一揆軍の蜂起を要請し、 これに応じた一揆軍は包囲軍を大敗させ、義尭、元長を自害に追い込んだ。 
木沢長政は天文十一年(1542)の太平寺の戦いで、元長の遺児、三好長慶に討ち取られる。 
安見宗房は畠山高政の家臣だったが、自ら河内の守護代を名乗り、主君の高政を紀伊に追放する。 
永禄二年(1559)、三好長慶は高政を援けるべく兵をあげると、宗房は大和に敗走する。 高政は三好軍の手際の良さを逆に驚き、彼の河内への進出を阻止すべく、敵対した宗房を正式に守護代に任命、 再び飯盛山城に配置した。  
この処置に憤慨した長慶は、高政の居城、高屋城を攻囲し、援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退した。 
高政、宗房は共に堺へ敗走し、翌、永禄三年(1560)十一月、畿内平定の本拠地として飯盛城に入城し、 大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になった。 
三好長慶は、入城の四年後の永禄七年(1564)に四十三歳でなくなると、飯盛城は三好義継や三好三人衆のものになった。 
織田信長により、攝津、河内の平定が行われると三好三人衆も軍門に下り、飯盛城は畠山秋高の所有になった。 
遊佐信教の反乱により秋高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は没落し、 天正四年(1576)頃には信長により廃城となった。 」 

飯盛山城は、 飯盛山は生駒山地の北部に位置し、長慶が城主であった時代には、南北千二百メートル、東西五百メートルの城域に、 大小七十の曲輪が築かれていたと推定されている。 
河内平野から京都まで一望できることから軍事的に重要な場所とされてきた。 
また、山の東側の深い谷、北と西側の急斜面に囲まれた要害の地でもあった。 
飯盛城へは北側の四条畷神社もしくは南側の野崎観音から登る二つのルートがある。 
一方から登り、城を縦断してもう片方から下りるのが良いかと思う。 

「 飯盛城は、飯盛山の最高地点三百十六メートル弱に高櫓曲輪が築かれ、 南北一直線上の尾根伝いに脇曲輪群、東西の尾根の先端部にも曲輪を置く構造になっていた。  
四條畷神社は北の登り口で、四條畷の戦いで敗れた楠木正行を祀るため、明治時代に創建された神社である。 
登城口は神社の駐車場の脇にあり、しばらくは急勾配の道が続く。 
二の丸史蹟碑曲輪は城の北部を守る腰曲輪の一つで、左側は堀切で囲まれている。 
その先の堀切の その先にあるのは二の丸御体塚曲輪である。  ここには四十三歳で没した三好長慶が死後三年間のあいだ、仮埋葬されていたと伝えられる。 
倉屋敷曲輪の下には石垣があるが、築かれた時期は不明。 
堀切の先は本丸で、三本松曲輪、展望台曲輪、高櫓曲輪と続き、一つの峰を成している。 
三本松曲輪は本丸の虎口である。  その先にある展望台曲輪は高櫓郭の一段下に位置する曲輪で、展望台からは河内平野を一望できる。 
高櫓曲輪は城の最高所に位置し、二十五メートル×十五メートルの削平地になっていて、 曲輪に立つのは楠木正行の像である。 
高櫓曲輪は北側に本曲輪があり、その下に山城では珍しい石垣がある。 
三好長慶が、かつて居城としていた芥川山城も同様の石垣が見受けられるため、 三好長慶の改修時に築かれた可能性がある。  但し、山城での石垣は珍しいので、三好長慶の改修時ではなく、 織田信長の落城後に再構築した可能性も指摘されている。 
その先、城山東側の中腹の削平部は馬場曲輪跡で、楠公寺がある。  昭和二十五年に開創とあるので新しい寺である。 
本丸の南に虎口跡。 
高櫓郭と千畳敷を隔てる堀切と土橋があり、その先は城の南部に位置する城内最大の曲輪、 四十メートルX三十二メートルの千畳敷曲輪で、現在はFMラジオの送信所が建っている。 
城の南端に位置する曲輪は南丸曲輪、土塁が明瞭に残っている。 
そのまま下ると野崎観音に出る。 」

所在地:大阪府大東市 四條畷市  
JR学研都市線四条畷駅か、野崎駅から徒歩で 
 四条畷駅 → 15分 → 四條畷神社 → 約1時間→ 飯盛山頂 
野崎駅 (大阪府) → 15分 → 慈眼寺 (大東市) → 約1時間 → 飯盛山頂 
飯盛城のスタンプは城跡にはなく、大東市歴史民俗資料館(大東市野崎三丁目六番地 072-876−7011 9時30分〜19時30分) にて  



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