続日本100名城 (159) 芥川山城
芥川山城があったのはJR高槻駅の北西約四キロの三好山で、
西麓には芥川が流れている。
近畿を平定する要の要所に位置し、
ここは三島平野、遠くは生駒山系を臨み、
眼下には西国街道の芥川宿を見通すことができる位置にあり、
亀岡へと続く間道があった。
また、芥川を下ると水上交通の要、淀川に至る立地など、
政治、戦略上において重要な場所であった。
JR東海道本線高槻駅(北のりば)から高槻市営バス、
塚脇行きまたは下の口行きに乗り、
塚脇バス停で下車する(30分に1本あり)
近くに芥川山城の説明板があるので、右側に狭い道に入り進み、
地蔵寺千念院、妙力寺、高槻黄金の里
(老人ホーム)を過ぎると、三好山看板があり、
その先の原地区を越えると城跡の入口に到着する。
高槻市観光協会パンフレット「芥川山城跡・三好山」
「 芥川山城(あくたがわさんじょう)は、
北・西・南の山裾を芥川がめぐる天然の要塞・、
三好山(標高182.69m)に築かれた、戦国時代の山城です。
摂津・丹波の守護・細川高国によって、永正十三年(1516)までに築城されました。
この後、高国を自害に追い込んだ細川晴元が滞在しますが、
晴元を追放した戦国大名・三好長慶(ながよし)が天文二十二年(1553)に入城。
長慶は、将軍を擁立することもなく畿内を支配し、
人々から天下人との評価を受けるに至ります。
長慶没後の永禄十一年(1568)、将軍・足利義昭を擁して上洛した織田信長の軍勢に、
三好一族は城を追われ、義昭の重臣・和田惟政(これまさ)が城主となります。
惟政が平地の高槻城に移ってからは、高山飛騨守・右近父子が城を預かりますが、
やがて、芥川山城は廃されました。
最大で東西約500mX南北約400mに広がる地域には、
最高所に主郭を配し、幾重もの曲輪と土塁・堀切などの防衛施設が設けられました。
現在でも、城跡を歩くと堅土塁や土橋、虎口、石垣などの遺構を見ることができます。
戦国時代屈指の山城である芥川山城は、平成29年3月に公益社団法人・
日本城郭協会によって「続日本100名城」に選ばれています。 」
塚脇まで徒歩15分。 その先は登山道(搦手道)になるので、
靴はそれに向いたものがよい。
この先は右側の塚脇ルートで、
塚脇バス停 → 徒歩 → 三好山山頂 約30分
なお、私有地なので、行動には気をつけないといけない。
芥川山城へは現在は東曲輪群の東側にある搦手道から登る。
その先にあるのは三の郭で、周囲は土塁に囲まれ、入口には虎口がある。
東曲輪群の入り口付近に石垣が見受けられるが、これは江戸時代末期もので、
廃城後の石垣である。
その先には土橋があり、切り通し虎口で、二の郭と繋がる。
切り通しの上部は二の郭で、二の郭中段の郭は舌状をしていて、先端に土塁がある。
また、その下に出丸があり、その間は大きな空堀で囲まれている。
また、出丸跡の最先端部には櫓が構えられていた可能性があるという。
二の郭を過ぎると、大手道が左から登ってきて、ここで合流する。
芥川山城の大手通はこの中央曲輪群の虎口より進入する。
また、この虎口跡には山城には珍しい石垣跡が存在している。
その先は主郭虎口、主郭前郭でそこを過ぎると視界が広がり、
かなり広い主郭に到着する。
なお、続日本100名城の芥川山城のスタンプは元治には置かれていない。
「
主郭(本丸跡)は標高約百八十二メートルの三好山の山頂に位置し、
高槻市教育委員会による発掘調査で、
礎石跡が検出され御殿的な施設が建設されていたのが確認できたという。
山城は通常、倉庫程度の簡単な施設が山頂に建設され、
山麓に居館を建て生活の基盤としているのが常だが、
住居空間も山頂に建設されていたのは珍しい。
本郭はくつ形の縦長で、ところどころに高低の段差で仕切られている。
主郭の奥は大きな堀切りがあり、守りを固めている。 」
帰りに大手筋ルートを歩くと大手門石垣がある。
三好山の西麓には芥川が流れていて、
夫婦岩、八丈畳などと称される奇岩や断崖が続く。
この一帯は摂津峡公園で、秋には渓谷が紅葉で美しい。
入口駐車場近くの桜広場には、三好長慶の石像がある。
所在地:大阪府高槻市大字岸
続日本100名城のスタンプはJR高槻駅の観光案内所の脇か、
駅の南東(徒歩15分)にある高槻市立しろあと歴史館にて
高槻市立しろあと歴史館は、高山右近のいた高槻城跡で、
三の丸があった場所である
所在地: 高槻市城内町1番7号 072-673−3987
10時〜17時 入館は16時30分まで 月休
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