続日本100名城 (158) 福知山城(ふくちやまじょう)






福知山城は福知山駅の東八百メートルの小山にあり、徒歩で十五分位でいける。 

「 福知山城は、北東に向って伸びる舌状台地に、 左(西)から内記丸、伯耆丸(三の丸)、二ノ丸、本丸と続く連郭式城郭で、 長さは東西約六百メートル、南北約百五十メートルから三百メートルである。 
本丸は丘陵(舌状台地)最先端部の一番高い、標高三十五メートル、比高約二十五メートルのところに置かれた。 
台地の北側の低い所に左門丸、対面丸、侍屋敷、大膳丸の曲輪を、 台地の南側に泉水、蔵屋敷、馬屋、鷹部屋、庭園などを設け、 城の北東に流れる由良川を天然の堀とし、西、南に外堀が巡らされ、いわゆる惣構えとなっていた。 」 

福知山城は、明智光秀が織田信長の命により、天正七年(1579)、 福知山地方の国人の塩見氏(後に横山氏と改めた)が築いた横山城を近世城郭へ建て変えたものである。 

「 明智光秀は織田信長の命により、丹波国を平定すると 天正七年(1579)、横山氏が築いた砦のような城を近世城郭へ建て変え、 福知山城に改名した。 
関ヶ原の戦いで東軍に組した有馬豊氏は福知山六万石を与えられ、 福知山藩初代藩主となり、山陰道を押える要衝地にあるこの城の大改修を行い、 現在残る華麗な姿とし、城下町も整備した。 
福知山藩は、有馬豊氏の筑前久留米に転封後、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房と替わり、 寛文九年(1669)、朽木稙昌が藩主となり、その後、朽木氏が明治維新まで十三代続いた。 
福知山城は明治六年(1873)の廃城令によって解体され、 明治二十年(1887)、二の丸の建物は取り払われ、建物の一部の瓦は寺院や民家に使用された。 」

福知山駅から福知山城へ向って歩くと、右側に惇明小学校があるが、 このあたりは「内記丸」の跡である。 
その先の市役所の裏の伯耆丸公園は「伯耆丸」跡である。 

「 伯耆丸には福知山藩初代藩主、有馬豊氏の弟、有馬伯耆守重頼の館があったところである。 」

市役所駐車場の北西隅にあったのは「内榎原門」で、武家屋敷からの登城に使われたようである。 
市役所から裁判所前を通り、福知山丹波生活衣館に差し掛かると右手小高いところに天守閣が見える。 
裁判所の一帯は平地で住宅地帯になっているが、江戸時代には二ノ丸があり、本丸と陸続きで繋がっていた。 
明治二十年(1887)、二の丸の建物が取り壊された際、二の丸の台地は削り取られ埋め立てられ、今の姿になった。 
また、伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴い、独立丘陵になってしまっている。 
その先の陸橋の手前右側に城郭の建物があるが、佐藤太清記念美術館である。 
その先に法川が流れているが、江戸時代には堀だったのだろうか? それとも由良川の名残なのだろうか? 
明治維新後、地形が大きく変えられていて、過去を探索するのはむずかしい。 

市役所
     福知山丹波生活衣館      美術館
市役所福知山丹波生活衣館美術館



本丸に向って美術館脇の道を上っていくが、 この道は、本丸に移された朝暉神社への参道として後に作られたものであり、 江戸時代の道は現在住宅地として利用されている二の丸側から通じていたようである。 
見上げると櫓門が見え、石垣には「転用石」の標札が建っていた。 
更に上って行くと本丸になり、復元された天守が建っていた。 

「 天守は三重四階建ての大天守で、 北側に二重二階階建の小天守、南側には現存していないが櫓門を介して二重二階建の菱櫓と連結した建物があった。 
大天守には床と棚をしつらえた八畳の上段ノ間、水流し、厠、小天守にも床と棚をしつらえた住居施設になっていた。 
大天守と小天守の連結部には縁側をとって座敷風な造りがなされている。
石落としの幅は八寸とされ、福知山城では大天守の虎口の上、大天守と小天守の二階の隅に設置されていて、 一階が
一ヶ所、二階が九ヶ所、計十ヶ所あった。  なお、二階の石落としは一階の張り出した屋根で隠されている。 」 

現在の天守は三年かけて、昭和六十一年(1986)に再建されたもので、 昭和六十年(1985)に小天守と続櫓が完成した。

「 復元天守は、大天守、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型である。 
外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造。  内部は「福知山市郷土資料館」として、城に関する資料や福知山地方の歴史、文化財を紹介している。   また、望楼からの城下の眺めは抜群である。 」

>
登城道
     石垣      天守
登城道転用石が使われた石垣復元天守



本丸はそれほど広くない。 本丸と二ノ丸にはそれぞれ御殿があったが、 城の中央に位置し広大な二ノ丸御殿が中心施設だったと思われる。 
「福知山城石垣の転用石」の説明板があり、その下には沢山の石材があった。 

「 天守閣の石垣は野面積み、乱石積み、などと呼ばれた技法で、 未加工の自然石が積み上げられている。  また、五輪塔や宝篋印塔を始め、石仏、石臼、灯篭などの石造物が大量に石材として利用され、 これらは転用石と呼ばれている。 
転用石の大量利用の例は福知山城や大和郡山に見られる。  再建時の発掘調査で五百余りが確認されている。 
中に延文四年(1359)銘の五輪塔地輪や天文十年(1541)銘の五輪塔地輪(天守の地階の階段石に転用)がある。 」   

銅門番所は、江戸時代には市役所の東(二ノ丸登城路付近)にあったもので、 大正五年(1916)に天守台に移され、 昭和五十九年(1984)、天守復元のため、現在地に移された。 
本丸天守の東側に、豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる井戸がある。

「 この井戸は城主であった朽木稙昌の父、朽木稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんだもので、 井戸の深さは五十メートル
あり、井戸底は海面下七メートルに達し、 高所に関わらず水深は三十七メートルあり、現在も満々と水をたたえている。 
伝承ではこの井戸に抜け穴があり、二ノ丸の北側の対面所裏にあった横穴に通じていると言い伝えがある。 」 

福知山城には三層四階の天守閣や広大な二の丸御殿など、多くの建物があったが、 廃藩置県後の明治四年(1871)に廃城となり、明治六年(1873)の廃城令によって解体され、 現在も城跡に残っているのは天守から本丸にかけての石垣と「豊磐の井」と呼ばれる井戸と銅門番所だけである。 
城門は観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺の山門になったと伝わり、 これらは福知山市重要遺産に指定されている。 

転用石
     銅門番所      豊磐井
転用石銅門番所豊磐井



所在地:京都府福知山市内記5番地  
JR福知山線福知山駅から徒歩約15分 京都交通バスで5分  
福知山城のスタンプは福知山城天守閣入口(9時〜17時入城は16時30分まで) と 福知山観光案内所(JR福知山駅北口 9時〜17時 年末年始休) にある 



 戻る(日本100名城表紙)




かうんたぁ。