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日牟禮八幡宮拝殿 | 石垣 | 西の丸跡 |
「北の丸跡」から南に下ると、「村雲御所」の看板のある門があり、「本丸跡」の表示板が建っている。
「 本丸の虎口は、方形の空間を設け右に折れ内枡形となっている。
本丸虎口より九十度曲がり、そこから下ると二ノ丸、さらに九十度に曲がると二ノ丸と平虎口に到る。
本丸と二の丸が接する西北隅に、十五メートル四方の天守台があり天守がそびえていたと推定されている。 」
豊臣秀次が尾張国清洲城に転封となり、代わりに京極高次が二万八千石で入城し、城郭の整備・拡張に努めたが、
文禄四年(1595)、秀吉による秀次の成敗で、聚楽第と八幡山城の破却が命じられ、
八幡山城は築城から十年で廃城になった。
本丸跡に建つのが、瑞龍寺である。
「 文禄五年(1596)、豊臣秀次の生母(秀吉の姉)の日秀尼は秀次の菩提を弔うため、
後陽成天皇から瑞龍寺の寺号と京都の村雲の地を賜り、創建したのが村雲門跡瑞龍寺で、日蓮宗唯一の門跡寺院である。
昭和三十八年(1963)、瑞龍寺は京都から本丸跡に移転、
京都より移築された山門は、八幡山城の本丸虎口となっている場所にある。 」
展望館には「二の丸跡」の表示板があり、ここに二の丸があった。
「 曲輪の石垣の隅部分は算木積みで組まれていて、加工された石材が使われているが、
隅部分の石垣以外は粗割石か自然石が積まれていた。
本丸の石垣は比較的大きめの石材を使用していた。 」
ロープウエイーを降りて、市立図書館に行くとその裏に八幡公園がある。
このあたりから奥にかけてが八幡山城の居館跡で、現在発掘調査が行われている、と聞いた。
「 八幡山城は山頂の城郭部分と山麓の居館部分に分れており、日常の生活は居館部分で行われたので、
城主や家来はここで生活していた。
居館は八幡山の南麓の谷地形の中央部分に雛壇状に曲輪が配されていて、最上部に秀次の居館があったという。
発掘調査ではここから多数の桐紋の金箔瓦が出土しているという。 」
八幡堀は琶湖の水を引いて作られた堀で八幡町の外側に巡らし、八幡山の麓を八幡堀と土塁で囲み、
その中に羽柴秀次居館や武家屋敷を配し、戦闘の用だけでなく運河の役割も果たしていた。
堀の幅は十一メートル〜十八メートル、深さは一メートル四十センチ、長さは六キロに及ぶ八幡掘の
八幡浦は琵琶湖で回船業を営むことができる親浦三つの内の一つで、
廃城後も明治時代、大正時代まで商工業の動脈として役割を果たしていたという。
瑞龍寺山門 | 二の丸跡(展望館) | 八幡堀 |
所在地:滋賀県近江八幡市宮内町他
JR琵琶湖線近江八幡駅からバスで7分、大杉町下車、徒歩約5分、近江鉄道八幡山ロープウエイで八幡山山頂へ
八幡山城のスタンプはロープウエイ山頂駅の窓口前にある