続日本100名城 (155) 赤木城(あかぎじょう)






赤木城は、三重県の南部の旧紀和町(現熊野市紀和町赤木字城山)に、 築城の名手、藤堂高虎が築いた中世と近世の築城法を併用した平山城である。 

「 紀南の熊野一帯は南北朝の時代より入鹿氏など多くの土豪、豪族が勢力を保持していた。 
天正十三年(1585)、豊臣秀吉による紀州攻略の後、紀伊国の平定を命じられた弟の秀長により検地が始まるが、 翌、天正十四年(1586)、山本氏ら熊野牢人衆による天正の北山一揆が起こった。  
秀長の家臣、藤堂高虎は、天正十三年(1585)の紀州攻めの際、北山入り、 文禄四年(1595)、四国伊予三郡を与えられるまでの十一年間、北山付近に在居した。 
この間、二度の北山の陣で一揆方と戦い、 捕えたものは赤木城の西約一キロメートルの田平子峠で斬首したといわれる。
赤木城が整備されたのは天正十四年(1586)頃と考えられている。 
江戸幕府誕生後の慶長十九年(1614)、新宮藩主、浅野忠吉が、大坂冬の陣に出陣している隙を狙い、 北山一揆が再び起こり、総勢三千人が新宮城に侵攻しようとしたが壊滅し、三百六十三人が処刑された。 
赤木城は元和元年(1615)の一国一城令により廃城となったといわれ、その後、城跡は荒れるままになっていた。 
平成元年、「赤木城及び田平子峠刑死場跡」として国史跡に指定されたのを期に、 平成五年に作成された保管保存計画に基づき、平成十六年度まで発掘調査と整備工事が行われ、 昔の姿を再現した石組になっている。 」 

赤木城は紀伊国牟婁郡北山郷の標高二百三十メートルの丘陵に築かれ、 主郭を中心に三方の尾根と山裾に郭が設けられている。

「 尾根を利用して築かれた郭配置は中世山城の様相を引き継いでいる。 
一方、高く積まれた石垣や横矢掛かり、発達した虎口などは近世城郭の要素が見受けられ、 過渡期の城郭であることを表している。  また、石垣に反りがなく自然石をそのまま積み上げる手法も過渡期の要素といえる。 
かつて本丸と呼ばれた主郭は城の最高所にあり、城下からの比高は三十メートルで、 東西三十三メートル、南北二十七メートルのほぼ方形ないし台形をしていて、 南側に複雑な枡形虎口を備える。 
また、南北の側面には横矢掛り(よこやがかり)が認められる。 
石垣の高さは約四メートルで、反りのない野面(のづら)乱積み(らんづみ)である。 
北西角は高さ五メートルで、四隅は算木積み(さんぎづみ)である。 
東側の下に犬走りがあり、北郭(付曲輪)および北の堀切につながる。 また、主郭に残っている礎石も大きく、他の郭より立派な建物があったと考えられている。 
北郭は石垣が二〜四段と低く、西面には石垣が積まれていないなど他の郭に比べて簡素なつくりだが、 尾根の先は堀切が設けられ、北から来る敵を防いでいる。 
東郭は門をはさむ二つの郭からなっていて、最初に敵を迎え撃つ場所である。  そのため、石垣は高く険しく積まれていて、 礎石がいくつか見られることから、建物があったと考えられている。 
門跡では礎石が二つ残っていて、間口八尺、奥行六尺の西脚の門があったと推測される。 
南郭は他の郭と違い、山裾に築かれている。  これは他の郭が防御の役割を担っていたのに対し、南郭はおもに生活の場だったためと考えられている。 
南郭一1と南郭3では建物の礎石や土留めの石積みが、 また、南郭3でかまど跡も見つかっている。 
下には田平子峠を経て入鹿へと続く道があり、普段の生活には便利だったと思われる。 
細長い尾根の上に築かれた西郭は、四つの郭で構成されている。 
西郭1は二棟の礎石建物と食物などを所蔵する施設か水溜と思われる石組み遺構が見つかっている。  西郭1及び2にも礎石がいくつかみられることから、建物があったと考えられる。 
西郭の石垣は他の郭と比べて傾斜が緩く、また、麓からよく見える部分には大きな石が使われている。  なお、尾根の西側にある大きな谷は斜面を削り、敵が登りにくいようにしている。 
城の出入口である虎口だが、赤木城では通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設け、要所には門を構えて備えている。  下段の虎口には防御のためか階段が見られず、梯子のようなもので登っていたと考えられる。  また、戦いの時以外は登城のための通路でもあり、主郭へ入る上段の虎口では大きな石を用いて立派に見せている。 
石垣は主郭や東郭のように周りからよく見える所は高く丁寧に積まれ、 北郭や西郭のように見えにくい所は石垣が低かったり、角度が緩くなっていて、 見栄えを意識して築かれていたことがわかる。 」

朝もやに浮かぶ城跡は幻想的で、天空の城とも言われる。  また、主郭には桜が多く、桜の名所としても知られている。 
登城口付近に鍛治屋敷があったとの伝承があり、また、近隣の入鹿は古くより有数の銅山として知られる。 
田平子峠刑場跡は、豊臣、徳川両政権の重鎮だった藤堂高虎らの新領主に農民一揆で抵抗した北山の人々が処刑された刑場の跡で、 こうした新領主に対し、在地の旧来勢力が抵抗を繰り返しながらも鎮圧されていく過程を示す重要な遺跡である。 
田平子峠刑場跡には、昭和四十三年(1968)に「北山一揆殉難者供養塔」が建てられた。 

所在地:熊野市紀和町赤木字城山   
紀勢本線阿田和駅からバスで60分、田平子下車徒歩約10分 
赤木城のスタンプは車で15分程にある道の駅熊野 板谷九郎兵衛の里(紀和町板谷 10時〜17時 平日は16時まで)で  



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かうんたぁ。