続日本100名城 (154) 田丸城(たまるじょう)
田丸城は南北朝時代の建部三年、延元元年(1336)、南伊勢に下向してきた北畠親房、北畠顕信により、
南朝方の拠点として築かれた平山城である。
「 田丸城は、建部三年、延元元年(1336)、北畠親房、北畠顕信により、南朝方の拠点として築かれた。
北畠家の庶流で、第五代北畠政郷の四男、顕晴が度会郡田丸城に入り、田丸氏を名乗った。
戦国時代に入り、田丸直昌は織田信長の伊勢侵攻に伴い、北畠具教の養嗣子となった織田信雄に田丸城を明け渡し、信雄に仕えた。
天正三年(1575)、北畠(織田)信雄は大河内城を廃して、田丸城に本拠を移し、三層の天守を備えた近世城郭を築き、織田氏の伊勢支配の中心拠点にした。
天正四年(1576)、田丸直昌は、信長の意向を受けた信雄の命により
長野具藤、北畠親成ら同族である北畠一門の主だった者を田丸城に招き寄せ、殺害した。
天正八年(1580)、放火により天守が焼失すると、織田信雄は再建することなく、松ヶ島城を築いて移った。
天正十二年(1584)、小牧長久手の戦いののち、蒲生氏郷が松ヶ島城に入封すると、
氏郷の妹婿になっていた玉丸直昌が再び田丸城主となった。
天正十八年(1590)の奥州仕置によって、氏郷が会津若松城に移封となると、直昌も三春城主として移った。
江戸時代初頭には稲葉道通が城主となったが、元和元年(1615) 摂津国中島に転封となり、
田丸城は津城主・藤堂高虎の支配地になるが、御三家の一つ、紀伊国和歌山藩が興されるとその所領となり、
紀州藩主・徳川頼宣は付け家老、久野宗成に1万石を与え、田丸城城主として田丸領六万石を領させた。
久野氏は家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。
久野氏はその後八代続き、明治維新に至る。
明治維新に伴い、田丸城の建造物はほとんど取り壊されたが、
天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されており、
他所へ移築されていた富士見門、三の丸の奥書院なども再度移築され、
織豊系の近世城郭と南北朝時代の中世城郭の遺構を併せ持つ興味深い城として、
三重県の指定史跡になっている。 」
田丸城はJR参宮線田丸駅の西北西五百メートルの地にあり、
城の入口に外堀があり、その中に玉城町役場、玉城保育所、村上龍平記念館があり、内掘の先に玉城中学校がある。
その先には天守台と石垣があり、城山公園になっている。
城内に桜が多く植えられていて、花見シーズンには花見客で賑わう。
所在地:三重県度会郡玉城町114−1
JR参宮線田丸駅から徒歩10分
三交バス玉城町役場前下車すぐ
田丸城のスタンプは上龍平記念館(教育委員会窓口)にて
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