続日本100名城 (153) 北畠氏館(きたばたけしやかた)
北畠氏館は三重県津市美杉町上多気の北畠神社の地にあった城である。
館の主は北畠顕能で、背後の霧山城へと繋がる尾根先端部に詰の城が築かれ、居館、詰の城、霧山城の三つで、多気城を構成していた。
「 北畠氏は、村上源氏の出で、京の北畠に居住していた公家の出である。
建武三年、延元元年(1336)、後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時、北畠親房は子の顕信、顕能を伴って南伊勢に下向し、
度会家行の援助で玉丸城を築き、南朝側の勢力をのばした。
その子、顕能は建武五年、延元三年(1338) 伊勢国司に任じられ、従四位上・伊勢守に叙任された。
同年九月、北畠親房、顕信は東国に転進したため、顕能は玉丸城を本拠として、伊勢国の経営を担うことになった。
足利氏はこれに対して、幾度となく玉丸城を攻撃を行った。
興国三年、康永元年(1342)七月、伊勢守護・高師秋に、仁木義長も加勢して攻撃したため、
南軍の戦況は次第に不利となり、八月に玉丸城などの諸城が陥落したため、北畠顕能は一志郡多気に逃れた。
その際に築かれたのが多気城であり、北畠氏館でもある。
その後、南北朝の合体や後小松天皇譲位による南北決裂などもあったが、
南朝方は次第に勢力を削がれ、北畠氏も一守護大名になっていった。
永禄十二年(1569)、織田信長が南伊勢に侵攻すると、北畠具教は大河内城に籠城し抵抗したが、
やがて、信長の次男、信雄を北畠の養子として家督を譲ることで和解した。
具教は、三瀬館に潜み、信雄に対抗しようとしたが、天正四年(1576)、信雄の命によって三瀬館で暗殺された。
その後、多気城は廃城になった。 」
北畠氏館があったのは、人里離れた山あいの小山であり、なぜこんな地にあったのかと思うが、
上述した通り、北畠氏は南北朝の争いの時代の南朝の武将で、
この場所は西に室生、赤目、宇陀、吉野と後鳥羽天皇の吉野に通じると共に、
東は一志多気、勢和多気、伊勢に通じる伊勢街道でもあった。
北畠神社の境内の居館跡には中世館跡として日本最古の石垣や礎石建物跡などの案内板がある程度だが、
庭園は三大武将庭園、日本名園五十撰にも数えられており、国指定の名勝である。
発掘調査の結果、虎口に川石を用いた石垣が約八十メートルが発見されている。
詰の城は背後に霧山城があるためこぢんまりとした規模の砦といえる城である。
縄張りは尾根先端部に主郭置き、更に東側腰曲輪を配している。
丘陵側の尾根筋には二重の堀切と土塁が設けられていた。
所在地:三重県津市美杉町上多気
JR名松線伊勢奥津駅からコミュニテイバスで北畠神社前で下車
北畠氏館のスタンプは北畠神社社務所にある
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