続日本100名城 (150) 古宮城(ふるみやじょう)






古宮城は三河国北東部の山間地にある作手(つくで)盆地の中央部に立地した平山城である。
武田信玄が三河進出の拠点とするため、 馬場信房に命じて元亀二年(1571)に築いたとされる。 

「  古宮城は、城の外縁に設けれた帯曲輪と土塁があり、 幾重に連なる曲輪群、随所にみられる竪堀と、 巧妙な仕掛けがこれでもかと並んでいる。  これらの遺構からも、古宮城は武田信玄による築城技術が生かされた構造と考えられ、 遠江国の諏訪原城を小型化した縄張りで、中世から近世に移る過程の城郭の見本とも いえる城である。 

徳川家康の家臣の奥平氏の本拠地、亀山城から一キロの至近の場所にあり、 同氏を監視する役割があったとも推測できる。  天正元年(1573)の信玄の死後、奥平、徳川連合軍により落城した。  廃城の時期についても明らかではないが、 天正三年(1575)の長篠の戦いで武田氏の勢力が大きく後退した時期の可能性が高い。

現在、城郭跡の南側に白鳥神社が建立されているが、その他の区域は山林となっており、遺構の破壊がかなり少ない。 
このため、戦国時代の築城技術を知る上で貴重な遺構となっている。 」

古宮城は、城のすぐ西に作手盆地を南北に縦貫する作手街道が走り、 城の南側には作手街道から分岐した街道が東に伸びるなど、 南信濃、遠州と三河を結ぶ山間部の交通の要衝といえる位置にあった。
城跡は国道301号線沿いにあり、城山は見た目は平凡でつい見過ごしそうだが、作手郵便局の東南にある。 
城山の南側に白鳥神社があり、そこに駐車スペースがある。


白鳥神社
     駐車場      作手歴史民俗資料館
白鳥神社駐車場作手歴史民俗資料館



古宮城は、周辺からの比高三十メートル、南北二百メートル、 東西二百五十メートルの小規模な独立丘陵上にあり、 周辺は盆地内で最も標高が低いこともあって、当時は南、東、西の三方が湿地だった。 

「 城から作手街道を挟んた西側には本城山が迫ってきており、 同時期に塞ノ神城が築かれていたと考えられている。 」

外部から城への入口(大手口)は、作手街道に面した西側にあり、内桝形の虎口である。 

「 現在、大手口周辺は私有地で、立ち入りすることができないので、 白鳥神社脇の道を上って、城跡に入ることになる。 」

大手口から敵が進入すると、その先、 幾重にも張り巡らされた細い土塁や堀底を移動することになり、 しかも、常に高所から守備隊の攻撃にさらされる。 
細い道を登り、西地区の主郭に入る。
西地区の主郭は二つの曲輪に分かれていて、 手前の曲輪は丸馬出しの役割を果たしていたと思われる。 

大手枡形虎口
     細い土塁道      西地区主郭
大手枡形虎口細い土塁道を行く西地区主郭(副郭部)



一箇所だけある東側の曲輪(主郭部)への細い道の先には土橋があり、 大堀切が南北に続き、東側の曲輪への進入を阻んでいた。 

「 古宮城は丘陵全体が技巧を駆使した極めて複雑な構造をしており、 城の中央部を南北に貫く大空堀があり、 城を東の主郭と西の主郭(四・二アール)に、二分している。 」

土橋を渡ると東側の曲輪の虎口(出入口)である。 

「 桝形の構造になっていて、「両袖枡形」というものであった。 
入口は少し小高くなっていて、的に向かって矢が射られやすくなっていた。

虎口を通過すると五十メートル四方の東地区の主郭に入る。 

土橋と堀
     両袖枡形      主郭
土橋跡 (奥)大空掘主郭虎口(両袖枡形)主郭(東地区主郭)



主郭は二つの曲輪で構成されていて、「仕切り土塁」で、東西に分けられていた。 
西側の曲輪(主郭上段)は少し高く、武田信玄や勝頼が入城の時、 ここを使用したように思われる。
その南には「櫓台」があり、主郭の虎口を目指す敵を攻撃することができた。

仕切り土塁
     主郭上段      櫓台
仕切り土塁主郭上段櫓台



主郭部北部の外縁に設けれた帯曲輪や丘陵の斜面に多数の曲輪跡が見られるが、 駐屯する兵や戦いの際の兵が居住する場所であった。
また、丘陵を東と西に分断した「大堀切」は、北部の麓から道のように南に向って 伸びているのが確認できる。 

帯曲輪
     大堀切      古宮城のスタンプ
帯曲輪大堀切古宮城のスタンプ



所在地:愛知県新城市作手清岳 
JR飯田線新城駅より豊鉄バスで鴨ヶ谷口バス停で下車    
新東名高速自動車道新城ICより国道301号線経由23q 白鳥神社東側に駐車スペース(無料)    
古宮城のスタンプは作手歴史民俗資料館(9時〜17時、火休、0536-37-2269) にて  



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かうんたぁ。