続日本100名城 (149) 小牧山城(こまきやまじょう)






小牧山城は小牧市役所の北側の小牧山に築かれた城である。 

「 永禄六年(1563)、織田信長は小牧山に築城し、清須から居城を移した。 
信長は犬山方面を支配下に置き、尾張を統一するとともに、積極的に美濃攻略を進めた。 
四年後の永禄十年(1567)には美濃の稲葉山城を攻略して、岐阜と改めるとともに居城を移した。 
城下町は南北1.3q、東西1kmに及び、北は小牧山、西は段丘崖、南に惣構を築き、町域とした。  これにより、小牧山城は廃城になり、東西一キロ、南北一・三キロの範囲で、 山の南に整備されていた城下町は一部を残して衰えた。 
天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて、本陣を置き、 遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。 
この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、 陣城として大掛かりな土木工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、 要所には防衛用の虎口を設けた強固な陣地が築かれた。 
秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。 
頼山陽の日本外史に 「 家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。  関ケ原にあらずして小牧にあり。 」 とあり、 急造の小牧山城は徳川勝利の一翼を担ったことを賞賛している。 
江戸時代に入ると、小牧山は「家康公御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止され、 小牧山と城跡は尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。 
昭和二年(1927)に一般公開、この年に国の史跡に指定され、徳川家から小牧町(当時)へ寄付された。 」  

小牧山城は南に大手口を設け、大手道は直線的に中腹まで登り、 右に折れて屈曲しながら山頂の主郭に至る縄張である。 
途中に虎口(出入口)が三か所に設けられ、 北側の搦手口からの道も設けられていた。 
小牧山城は信長の約四年だけの居城だったので、信長の美濃攻略のための土塁による仮住まいの城と考えられていたが、 発掘調査をすると、その概念が変わった。

「 平成十七年(2005)の調査で、現在の大手道の地下に、永禄期の大手道があることが発見された。 
永禄期の大手道は、山側、谷側にそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた。 
道幅は約五メートルで、道に並行して幅 二十センチの排水溝を設置していた。 
この構造は安土城の正面にある大手道の構造と似通っていて、 安土城の大規模な大手道は、この小牧山城が起源だった、と推測されている。 」

小牧城縄張
     大手道      大手道
小牧城縄張大手道大手道



城の主郭の周囲には上下二段あるいは三段の石垣が巡っていたことが判明し、 小牧山城は本格的な城郭で、安土城の原形になった城郭ではないといわれるようになった。 
小牧市歴史館の下部の傾斜には石垣の一部と思われる石が露出しているが、 説明板と発見された時の写真が掲示されている。  

説明板
「 信長が築いた城の主郭(本丸)は、現在小牧市歴史館が建つ山頂にあり、 その下の斜面には上下二段(一部三段の石垣で、一番下の段は、腰巻石垣)の石垣が約70度の勾配で築かれていました。  上段と下段の石垣の間には幅2m程の平坦面があり、そこに玉砂利が敷かれていた部分も見つかっています。 」

また、「小牧山北駐車場→」の看板の隣に「石垣の裏込石 平成25年度発掘調査で出土」と書かれたプレートがあり、 奥に石がずらりと積み上げられていて、「将来的には石垣の復元の際に使用する。 」 とあった。 
 

天守下の場所
     発見時の石垣      石垣の裏込石
現在の天守下の斜面発見時の石垣石垣の裏込石



小牧市歴史館に上る階段の左側に「主郭跡」の標柱があり、 「 織田信長が城を築き、後に徳川家康の本陣となりました。  周囲に石垣の跡が部分的に残っています。  昭和六十一年三月 小牧市教育委員会  」 と書かれている。  

「 小牧市歴史館は昭和四十三年(1968)に平松茂(故人)が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、 鉄筋コンクリート三層四階建て、高さ十九・三メートル、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして、 名古屋工業大学城戸久教授(故人)の設計によって建設されたものである。 」 

小牧市歴史館の前には尾張徳川家の徳川義親氏の銅像が立っている。
歴史館へ上る階段の右側に巨石が二段積まれた石垣がある。 

説明板「主郭の段築状石垣」
「 大手道から頂上の主郭に至る主郭地区のこの場所の調査で、織田信長築城時(永楽期)の石垣を確認しました。 
積み石は斜面に露頭する巨石を一部遺すのみでしたが、土中からは割石状の裏込石が大量に出土し、 積み石の背後に裏込層を備えた本格的な石垣が築かれていたことがわかりました。 
織豊期城郭として石垣を採用する初現となる小牧山城では、築城技術がまだ未成熟であったのか、 石垣使用が常用化する近世城郭の高石垣と異なり、 自然石の巨石を2〜3個積み上げた低い石垣を段築状に築いた石垣であったことがうかがえます。  初期の石垣であり、防衛施設としては決して堅固なものではありませんが、 後に織田信長が天下人の威厳を示すために築いた安土城の天主のように、 小牧山の頂にそびえるように見えた石垣は、南麓の城下町に住んだ家臣団や領民の度肝を抜いたかもしれません。            小牧市教育委員会    」   

小牧市歴史館
     徳川義親氏銅像      段築状石垣
小牧市歴史館徳川義親氏銅像段築状石垣



なお、市役所から大手道を上ると右側に復元された空堀と二重の土塁がある。 

説明板「ここから見える土塁と堀」
「 これらは天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦の前、 織田信雄と徳川家康がこの城に来て、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦ったが、 この時、ここに二重の土塁と空堀を作って山を囲み、 山の東側の入口には深さが5.5mもある深い堀を造ったり、 山の中にも新しく土塁を造るなどして敵が入ってこられないようにした。 
この下に見える堀が二重に造られた土塁の間の堀で、堀の南側にある土塁が外側の土塁で、 ここにあった市役所を建てる時にこわれてしまったものを造りなおしたものです。 
ここから堀の底までは約6mの高さがあります。 
内側の土塁は東側から延びてきて、 上の曲輪(平の場所)のところにつながっていました。 」  

大手道を上がると桜の馬場という曲輪跡がある。
大手道を進むと階段道が現れ、大手道の階段脇に 「守りの要衝 虎口a」の説明板があり、説明板の横は少し窪んでいて、堀跡、その上は盛り上がって土塁跡のように思われた。 

説明板「守りの要衝 虎口a」
「 説明板の南側の堀、その東側と西側に土塁、北側に土橋があるので、発掘調査で確認を行った。 
土橋はここが北端部となっており、幅は約6.5m、堀の底は平坦で、 堀底からの高さは土橋までは2.5m〜3m、40度〜50度の傾斜が付けられ、 ここが土塁と堀で堅固に防御された守りの要衝であることがわかりました。 
この虎口は織田信長築城時(永禄期)に築かれましたが、小牧・長久手の合戦(天正期)には、土橋が封鎖されました。 
江戸時代に作られた小牧山模型を見ると、高い土塁が曲輪の北側まで続くように表現されています。 
現在、曲輪(土橋を上がった所の平坦地)の縁にある土塁はわずかに高まりを残す程度ですが、 これは明治時代に小牧山が一時県立公園となり、曲輪に創垂館を建設するために土塁を削平し、現在の園路も通されたと考えられます。 
削平された土が曲輪内に敷均され、土橋、堀、土塁にも押し出したようで、 堀では2.6mの厚さで土砂の堆積がみられたところがありました。 」 

大手口の右手に名鉄バス小牧市役所前バス停があり、 更に右に進むと平成三十一年(2019)四月に開館した、れきしるこまき(小牧山城 史跡情報館)がある。  (0568ー48−4646 100円。 9時〜17時、第3木曜日、年末年始休 )
続日本100名城のスタンプはここにはないので、注意する。 
館内には周辺の遺跡から出土した茶碗などが展示されているが、城に関するものは少ないので、 寄らないでも良いだろう。 

堀と土塁
     虎口a      史跡情報館
堀と土塁虎口a史跡情報館



所在地: 愛知県小牧市堀の内一丁目地内 
名鉄小牧線小牧駅から西へ千七百メートル(小牧山まで徒歩約20分)  
名鉄バスこまき巡回バス「小牧市役所前」下車   
小牧城のスタンプは小牧市歴史館にある 
小牧市歴史館( 0568−72−0712 9時〜16時15分、第3木曜日は休み 



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かうんたぁ。