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浜松城公園入口 | 若き時代の徳川家康 | 復元された天守門 |
天守台は創建当時の野面積み、一辺約21mのいびつな四角形で、
西側に八幡台と呼ばれる突き出し部分と、
東側に付櫓と呼ばれる張出し部分がある。
天守は堀尾時代の十六世紀末に創建されたが、
恵ぢ時代の初期(十七世紀のうちに)無くなり、その後再建されなかった。
現在の天守は、昭和三十三年(1958)に、福井県の丸岡城を参考に、
野面積みの旧天守台の上に、地上三階、地下一階建ての
鉄筋コンクリート造りの模擬天守である。
館内は展示館になっているが、天守台の地下には穴蔵があり、
その中央部に石組井戸がある。
説明板
「 石組井戸は穴のまわりを石を積んで崩れないようにしたものである。
この井戸は銀明水と呼ばれていた。
浜松城には天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、
二之丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があった。
天守台の井戸は再建の時残し、今は天守閣の地下室にある。 直径3m、
深さは現在1mほどなっており、水はない。 」
天守の西側に井戸がある。
「 これは天守曲輪の埋門のそばの井戸で、城内に住む人々の飲料水として、 また戦いの時には籠城になることも想定し、 最後の拠点として天守内部や天守の間近に設けられることが多かった。 」
天守曲輪の西側には埋門があり、日常の出入りにはこの門が使用された。
天守台の近くの石垣は、慶長期のもので、野面積みと呼ばれる堅固な作りで、
古い石垣の特徴をよく残していることから、浜松市の史跡に指定されている。
「 この石垣は基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積みという方式で、
慶長以前はこの方法が多く用いられた。
各段の積み方は布積(ぬのづみ)と呼ばれる、
石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、
布の横糸が通ったように積む技法が採用されている。
不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、
小さな面を内にして積み、
隙間に背後から飼石(かいいし)を入れ、石が動かないように固定する。
背後(内側)には多量の栗石(ぐりいし)を詰めて強化する。 」
石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めてあるが、 これは間石(あいいし)と呼び、 石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていない。 間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言える。
「 突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積みという方法を用いている。
石垣の斜面は直線的で、五七度?七八度の傾斜をしている。
石垣に用いた石材は珪岩(けいがん)と呼ばれる石がほとんどで、
そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られる。 」
この石垣がいつの時代に築かれたかについては、
正確な資料がないのでわからないが、
浜松城二代目城主堀尾吉晴の頃(1590年頃)という説が有力とのことである。
復元天守 | 石組井戸・銀明水 | 野面積みの石垣 |
所在地:静岡県浜松市元城街
JR東海道本線・東海道新幹線浜松駅から市役所方面行きのバスで市役所南で
降り、徒歩10分
浜松城のスタンプは浜松城復興天守(200円、8時30分〜16時30分)の一階にある