続日本100名城 (148) 浜松城(はままつじょう)






浜松城の前身は十五世紀頃に築城された曳馬城で、徳川家康が元亀元年(1570)、 三方原台地の東南端にある曳馬城に入城し、 遠州攻略の拠点として城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。

「 浜松城の前身は十五世紀頃に築城された曳馬城で、 十六世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。 
徳川家康が元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、 三方原台地の東南端にある曳馬城に入城し、遠州攻略の拠点として、 城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。 
この頃の曳馬城は現在の元城町東照宮付近にあたるところにあった、とされる。 
「ひくま」は「馬を曳く」つまり、敗走を意味し縁起が悪いということで、 家康は地名を浜松した。 
家康は二十九歳から四十五歳までの十七年間を浜松城で過ごした。 
その中で有名なのは元亀三年(157)の三方ヶ原の合戦である。 
武田軍三万に対して家康軍はわずか一万足らず、 これでは勝負にならないと家康は家臣に化けて命からがら、 浜松城に逃げ帰り、城門を開けて迎え討つと、 武田軍はなにかの策があると警戒して、攻めてこなかったたことで、 一死を免れたといわれる。 
家康は敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられている。 」

浜松城は明治に廃城になり、三の丸と二の丸は市街地化され、 本丸と天守曲輪は浜松城公園になっている。
公園に入ると、「若き時代の徳川家康」の銅像が建っている。 

「 浜松城は南北約六百五十メートル、東西六百メートル。  三方ヶ原台地の斜面に沿い、南の東海道に大手門が開き、 東から西へ三之丸、二之丸、本丸、西北の最高所に天守台と連なり、 ほぼ一直線に並ぶ、 梯郭式城郭で、 各曲輪が隣接しながら、階段状になっていた。 
当時の城は土塁が中心で、石垣や水堀は少なかったようであるが、家康時代の詳細は不明である。 
浜松城は、代々譜代大名が城主を務め、 在城中に老中に栄進したものが多いことから、 のちに「出世城」と呼ばれるようになった。  中でも水野越前守忠邦の名がよく知られている。 
明治維新で廃藩になるまで、九家二十二代に引き継がれていき、 歴代の城主によって、城域の改変や改修が進められた。 
明治六年(1873)の廃城令により、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、 三の丸と二の丸の宅地化が進行したが、 天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、 昭和二十五年(1950)に浜松城公園となった。 」

天守曲輪は、南北68m、東西56mの多角形で、東に天守門、 西に埋門があった。
天守門は天守曲輪の東にあり、本丸から天守曲輪に入る正門である。
天守と同じ16世紀末に建てられた櫓門で、改修・改築が行われながら、 廃城まであった。  天守閣がなくなってからは、浜松城で一番高い位置にあった。  現在の門は、安政地震の被害状況を記した絵図と発掘調査に基づき、 建てられたものである。

浜松城公園
     家康像      天守門
浜松城公園入口若き時代の徳川家康復元された天守門



天守台は創建当時の野面積み、一辺約21mのいびつな四角形で、 西側に八幡台と呼ばれる突き出し部分と、 東側に付櫓と呼ばれる張出し部分がある。 
天守は堀尾時代の十六世紀末に創建されたが、 恵ぢ時代の初期(十七世紀のうちに)無くなり、その後再建されなかった。   
現在の天守は、昭和三十三年(1958)に、福井県の丸岡城を参考に、 野面積みの旧天守台の上に、地上三階、地下一階建ての 鉄筋コンクリート造りの模擬天守である。 
館内は展示館になっているが、天守台の地下には穴蔵があり、 その中央部に石組井戸がある。 

説明板
「 石組井戸は穴のまわりを石を積んで崩れないようにしたものである。  この井戸は銀明水と呼ばれていた。 
浜松城には天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、 二之丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があった。 
天守台の井戸は再建の時残し、今は天守閣の地下室にある。 直径3m、 深さは現在1mほどなっており、水はない。 」

天守の西側に井戸がある。

「  これは天守曲輪の埋門のそばの井戸で、城内に住む人々の飲料水として、 また戦いの時には籠城になることも想定し、 最後の拠点として天守内部や天守の間近に設けられることが多かった。 」

天守曲輪の西側には埋門があり、日常の出入りにはこの門が使用された。
天守台の近くの石垣は、慶長期のもので、野面積みと呼ばれる堅固な作りで、 古い石垣の特徴をよく残していることから、浜松市の史跡に指定されている。

「 この石垣は基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積みという方式で、 慶長以前はこの方法が多く用いられた。
各段の積み方は布積(ぬのづみ)と呼ばれる、 石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、 布の横糸が通ったように積む技法が採用されている。  不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、 小さな面を内にして積み、 隙間に背後から飼石(かいいし)を入れ、石が動かないように固定する。  背後(内側)には多量の栗石(ぐりいし)を詰めて強化する。 」

石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めてあるが、 これは間石(あいいし)と呼び、 石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていない。  間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言える。 

「 突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積みという方法を用いている。 
石垣の斜面は直線的で、五七度?七八度の傾斜をしている。 
石垣に用いた石材は珪岩(けいがん)と呼ばれる石がほとんどで、 そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られる。  」

この石垣がいつの時代に築かれたかについては、 正確な資料がないのでわからないが、 浜松城二代目城主堀尾吉晴の頃(1590年頃)という説が有力とのことである。

浜松城天守
     石組井戸銀明水      野面積みの石垣
復元天守石組井戸・銀明水野面積みの石垣



所在地:静岡県浜松市元城街     
JR東海道本線・東海道新幹線浜松駅から市役所方面行きのバスで市役所南で 降り、徒歩10分 
浜松城のスタンプは浜松城復興天守(200円、8時30分〜16時30分)の一階にある 



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かうんたぁ。