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切通しの道 | 三ヶ月 | 井戸曲輪跡 |
鳥居の下に道標があり、右手のに細い道を入っていくと、西峰の北方にあたるのだが、二の丸があったところである。
その先には袖曲輪跡の表示板があった。
引き返したところに「丸尾兄弟の墓」は下にと表示された道標があるが、北に突き出していたのは堂の尾曲輪で、そこに丸尾兄弟の墓がある。
ここには堀切、横掘、竪堀が造られていた。
二の丸跡 | 袖曲輪跡 | 丸尾兄弟の墓の道標 |
鳥居の先の石段は急で、石段を登って先の左に「西の丸跡」の標柱があり、社務所が建っている。
更に石段を登ると高天神社の社殿がある。
「 高天神社は高天神城の守護を担う神社として創建されたが、 江戸時代に入ると、高天神城は廃城となったが、 高天神社は高天神山に残され、地域の住民の信仰を集めることとなった。 祭神は高皇産霊尊、天菩毘命、菅原道真の三神で、社名の天神も天神である菅原に由来すると考えられる。 」
「西の丸跡」の標柱の左に「堀切」の標柱があり、そちらにいくとその先は堀切になっていて、堀切に下って対面に行くようになっている。
西の丸跡 | 高天神社 | 堀切 |
堀切は雑木が生えているため、当時は様相を変えているが、木がなければ迫力がすごいだろう。
堀切にある「切割」の標柱には「 尾根伝いに攻めよせる敵兵を防ぐために作ったもの。 」 とあった。
「 高天神城では石垣は築かれず、多くの土塁で曲輪の周囲を取り囲み、掘割も設けられていた。
ここでは尾根続きの道を分断するために高低差のある切割を作ったのである。 」
堀切の先には空地があり、海が見渡せられるところに、「馬場平」の標柱と「御前崎方面」の看板があったが、
ここの馬場があった訳でなく、馬場は番場の当て字だったようで、当時ここに見張番所があったようである。
切割 | 馬場平 | 見張番所(展望台) |
その先には鬱蒼とした林が続くがその中に小道があるが、 これは甚五郎抜け道と呼ばれる尾根続きの険しい道である。
「 天正九年の落城時、軍監、横田甚五郎尹松が武田勝頼に高天神落城を伝えるため、 城からの脱出に用いた「犬戻り猿戻り」といわれる峻険な尾根道である。 」
鏡曲輪まで戻り、今度は東峰を登る。
「左上る 大河内石窟 御前曲輪」の標柱があるが、当時はここに門や柵を作り、木戸があったといわれる。
林のようなところに入ると「的場曲輪跡」の標柱がある。
「 この場所は弓矢の練習をしていたところといわれる。
発掘調査で、砂利が敷きつめられていたことが確認された。
これは重いものを置いても沈まないようにするため、
あるいは鉄砲の弾薬を置いた場所で、湿気防止であないかと、思われている。 」
甚五郎抜け道 | 道標(木戸跡) | 的場曲輪跡 |
少し歩くと明るいところに出ると、「大河内政局石室道入口」の標柱がある。
「 天正二年(1574)、高天神城は武田勝頼により攻め落とされ、城主の小笠原長忠は武田方に降り、
城兵は南西に分散して退去し、武田方武将横田尹松が城番として入城した。
小笠原長忠の家臣、大河内政局(まさちか)は降伏せずいたので、本丸下の石牢に閉じ込められた。
天正九年(1581)、家康腹心の榊原康政、本多忠勝らが武田軍が守る高天神城を猛攻撃し、
城の弱点である西の丸を破って城内に突入、ついに高天神城を奪い返した。
この時、城内の石牢には小笠原長忠の家臣、大河内政局(まさちか)が、天正二年に落城後も一人武田方に属せず、
八年間幽閉されていた。 家康は政局の忠節に感銘を受け、恩賞を与え、家臣にしたという。 」
右に行くと「土塁」跡の標柱があり、「 曲輪の入口を虎口(小口)といい、その残部である。 」 とある。
ここは北方の土塁で、南西にも土塁が残っているが、その中は本丸である。
「本丸跡」の標柱には 「 天正二年、勝頼が高天神城を攻めた時は東曲輪と呼ばれていたと思われる。 」 と書かれていた。
大河内政局石室への入口 | 土塁跡 | 本丸跡 |
東峰の一番高い所にあるのが本丸で、城内で一番広いスペースをなしていた。
本丸南の土塁の上の元天神社は、廃城になった後の江戸時代中期に村人により慰霊碑が建立されたが、
その頃にここに勧請されたものと思われる。
「 高天神山は平安時代から修験道の修行の場として神域だった。
天神の名も天神社によるものだが、戦国時代にどこにあったかはわからない。
現在は西峰に移されて、立派な建物になっている。 」
その南にあったのが御前曲輪である。
城主、小笠原与八郎長忠夫婦のイラストが愛嬌のように置かれている。
彼は今川→徳川→武田と領主が代わる度に、降伏して臣従してきたが、最後の判断は失敗で、歴史から姿を消した。
裏返して見ると、攻める側に立つとそれだけ高天神城が重要であったといえる。
東峰は周囲をほぼ絶壁で守られ、曲輪を雛壇状に配置し、急斜面の山であるために通路以外からよじ登ることは困難であった。
御前曲輪の下にあったのが三の丸跡である。
元天神社の鳥居から下った道標にはトイレ(三の丸跡)とあり、
道標に従って行くと結構広い土地に小屋があり、周囲に土塁が残っている。 視野は狭いが、見晴しもあった。
戦国時代にはこの下(南)に大手門があり、東側の段丘面に武家屋敷があったといわれる。
元天神社 | 御前曲輪跡 | 三の丸跡 |
所在地:掛川市上土方嶺向
JR掛川駅北口3番でしずてつジャストライン、掛川大東浜岡線浜岡営業所又は大東行きの乗り、
土方バス停で下車、徒歩15分で追手門口に到着する
高天神城のスタンプは @大東北公民館(掛川市下土方267-1 9:00〜17:00、 月曜休
A掛川観光協会ビジターセンター「旅のスイッチ」(静岡県掛川市南1-1-1 9:00〜17:00(年末年始休)
B掛川南部観光案内処(静岡県掛川市西大渕4334 9:00〜16:00(水・木曜、年末年始休) にある