続日本100名城 (146) 諏訪原城(すわはらじょう)
諏訪原城は遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった山城で、城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。
武田勝頼が天正元年(1573)、馬場氏勝に命じて築いた城で、浜松の徳川家康に対する前線基地だった。
「 諏訪原城は、遠江国の東端近くの牧之原台地の舌状台地の先端部に立地し、
城のすぐ南を東海道が通り、東の金谷坂を下ると大井川をまたいで駿河国に入り、
西の菊川坂を下ると小夜の中山を経由して掛川の盆地部に出る。
また、南に牧之原台地を下ると、菊川下流域の平野部に出るという交通の要に位置していた。
遠州の攻略を続けていた武田信玄は病死したが、跡を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論み、
天正元年(1573)に普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に諏訪原城を築かせた。
天正三年(1575)、徳川家康の攻撃を受け、城主、今福浄閑斎は一ヶ月余、抵抗したが討死し、
残った城兵は夜半に紛れて田中城に逃亡して落城した。
落城後、家康はこの城を拠点に武田勝頼軍の動向を監視、牽制を続け、
高天神城への大井川沿いの補給路を封じたことで戦いを有利に導いた。
家康はこの時期に堀や丸馬出しを更に増強、大手曲輪なども築き、牧野城と改名している。
天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると牧野城(諏訪原城)の存在意義が薄れ、天正十八年(1590)に廃城となった。 」
諏訪原城跡は建築物は残っていないものの、堀、曲輪、馬出などの遺構がはっきりと残り、
戦国時代の武田氏、徳川氏の築城様式を知る上で貴重なものととして、
昭和五十年(1975)に国の史跡に指定、さらに平成十四年(2002)に一部区域が追加指定を受け、
現在の史跡指定地は南北約五百八十メートル、東西約千四百五十メートル、約十一万uである。
「 諏訪原城は複雑な地形を利用し、堀を幾重にも張り巡らせ、押し寄せる敵を防ぐ工夫が施された難攻不落、天然の要害の城である。
信玄後期から勝頼期に築かれた甲州流の城の特徴である台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。
甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀が三ないし五ヶ所あり、枡形虎口などの遺構が残る。
城の三方は台地の断崖となっており、前面の巨大な空堀がこの断崖へと続いている。 」
諏訪神社の鳥居の横に「諏訪原城址」の石碑が建っている。
薄暗い神社境内を進むと、空掘がある。 その先の草叢に「武家屋敷跡」「大手郭」の表示板がある。
武家屋敷や馬場などがあったところは林に変り、自然に戻ったという感じで、大手郭の面積などは確認しようがない。
その先は茶畑が広がる。
「 明治維新により、駿府徳川家の家臣が職を失い、自活のため、荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾し、主に茶畑とした。 」
諏訪原城跡はその茶畑の中にあり、茶畑の中に戦死した武田方の城主「今福浄閑の墓塚」がある。
林の中に入ると「乾郭跡」の表示板がある。
その先に「三号堀」の説明板があったが、家康が増強したもののように思えた。
「 二の丸を守っていた。 長さ七百メートル、幅十四メートルの水堀。 」
二之丸と三之丸跡は茶畑になっていたが、近年、学術調査で掘り返したところ、その痕跡も残っていたという。
説明板
「 二之丸は武将が集まって戦術を打ち合わせたところ、三之丸は火薬や武器を貯蔵していたところである。 」
その先の一角は掘り返された区画のようで、「本丸跡」の表示板があり、「 ここに城主が住んでいた。 」 とある。
その先に「天守台地」の説明板がある。
「 この城は山城であり、天守閣はなく、二層からなる矢倉(櫓)があり、物見が常駐していて、敵の動向を監視していた。
その前方は急斜面になっていて、攻めてくる敵には石や矢で見ながら攻撃できる位置にあった。 」
当時は、地上にいる敵の様子は一望できたようだが、木が繁茂しているので、一部しか見ることはできなかった。
その先に「搦手外郭」「搦手口」の表示板はあるが、笹に覆われた原野になっていた。
所在地:静岡県島田市金谷
東海道本線金谷駅から西へ徒歩20分
駅から旧東海道の石畳を登ってしばらく歩くと城跡に至る
また、一日四往復だが金谷駅から島田市営のコミュニティバスも利用できる
諏訪原城のスタンプは諏訪原城第一駐車場前にある諏訪原城説明板の横にスチール机があり、その中に入っている
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