続日本100名城 (145) 興国寺城(こうこくじじょう)
興国寺城は根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城で、
後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城として名高い。
平成七年(1995)、興国寺城跡は国の史跡に指定された。
「 興国寺城があったのは沼津市根古屋で、
新幹線が走る線路の南方にある穂見神社から南にかけてである。
興国寺城は愛鷹山の裾野が浮島沼に向って張出した低い尾根の上に立地し、
山の尾根を通る根方道と浮島沼を縦断して千本浜へ至る江道(えみち)、竹田道との分岐点にあたり、
かっては伊豆、甲斐を結ぶ交通の要衝だった。
長享元年(1487)、室町幕府官僚であり今川氏の客将だった伊勢新九郎盛時(北条早雲)は
今川氏の相続争いで今川氏親を助けた功から、
富士郡下方十二郷の領地が与えられ、興国寺城主となったとされる。
伊勢新九郎は延徳三年(1491)、伊豆韮山の堀越公方の子、足利茶々丸を襲い、伊豆国の領主となって
韮山城に移り、戦国大名としての第一歩を踏み出すが、興国寺城自体は継続して使用された。
北条氏が伊豆に去った後、興国寺城は戦国大名の争いの渦中におかれ、
今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の勢力下となり、
慶長六年(1601)、徳川家康の家臣、天野康景が一万石の城主となるが、
康景は家臣をかばい、自ら逐電してしまったため、慶長十二年(1607)に興国寺城は廃城となった。 」
古城と呼ばれるこの地域は、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田掘に守られていた。
興国寺城は土塁と空掘により区切られた本丸、二の丸、三の丸の三つの曲輪が北から南に主郭をなし、
それを大空掘の北側に位置する外曲輪の北曲輪と東側の清水曲輪で防御する縄張になっていた。
現在鎮座する穂見神社があるあたりが本丸跡で、本丸は四方を高さ十メートル程の土塁を巡らせ、
南は空掘で区切られていて、南側だけに入口が設けられていて土橋が架けられていた。
現在は、南側土塁は崩されているが、北側土塁の上から見ても、その他はほぼ旧態を認めることができる。
本丸は標高二十メートルと高いところになく、
敵が南からなだらかに十五メートル登って攻めてくる形になるが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、
難攻不落の城だったようである。
神社裏の本丸北側土塁を登ると、「本丸土塁」の標柱がある。
本丸土塁は他の土塁より一段高く築かれ、中央部南面には石垣が積まれている。
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本丸跡(奥 穂見神社と北側土塁) | | 北側土塁上から見た本丸跡 | | 中央部南面石垣 |
更に登ると上部は天守台と呼ばれる平坦部になっている。
発掘の際、二棟の建物跡が発見されたとのことで、礎石が残されている。
面積などから見て、天守といえるものではなく、見張小屋程度のものが建っていたのではないだろうか?
西端に狭い平坦部があり、西櫓台と呼ばれていたという。
また、本丸東南部には土塁の上に平坦部が設けられ、石火矢台と呼ばれていて、
ここから本丸土塁の裾を通って、北側の大空掘に抜ける小道が残されている。
北側本丸土塁の上から北を見ると木立の間から深い谷のような大空堀と外曲輪跡が見えた。
二の丸や三の丸の土塁や空掘は壊されて、一部の土塁と溜池が残るだけのようである。
所在地:静岡県沼津市根古屋古城
興国寺城跡へはJR東海道本線原駅から富士急バスで東根古屋バス停下車、北に三百メートル
興国寺城のスタンプは本丸跡に建つ穂見神社(沼津市根古屋古城359)の境内にある興国寺城案内板脇にある保管木箱の中に入っている
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