続日本100名城 (144) 大垣城(おおがきじょう)
大垣城は関ヶ原の戦いの前日、石田三成の陣地になった城である。
「 大垣は江戸時代には美濃路の宿場町にもなり、松尾芭蕉の奥の細道むすびの地としても有名である。
大垣城の前身は明応九年(1500)に竹腰尚綱によって牛屋川(現在の揖斐川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、
天文四年(1535)に宮川安定が大尻に築いたともいわれ、当時は牛屋城と呼ばれていたとされる。
その後、織田信長の父、信秀により落城し、織田信辰が五年間城主を務めるも、
斎藤氏により城は奪い返され、斎藤氏配下の竹越尚光が城主となった。
西美濃三人衆の一人、氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。
天正十一年(1583)、豊臣秀吉により池田恒興が城主に、恒興が死ぬとその子の輝政、そして、
天正十三年(1585)、一柳直末が城主になったが、同年に起きた天正の大地震により、城は全壊焼失した。
慶長元年(1596)、豊臣秀吉の家臣、伊藤祐盛により、天守が築かれたとされる。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当時城主、伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となったが、
その後、西軍本隊は関ヶ原に移動した。
城内には福原長堯らが守将となって残ったが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城した。
江戸時代にはいると、徳川家康は譜代大名の石川康通を城主とした。
寛永十二年(1635)に、戸田氏鉄が城主となると、明治まで大垣藩戸田氏の居城となった。 」
大垣城は三重の堀に囲まれた水の城であり、總堀内には古来から町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、
その町屋を縫うように美濃路が通っていた。
「 大垣城は南と東を大手、北と西を搦め手とする要害堅固な城郭で、
惣郭には七口之門があり、名古屋側の入口には東総門、京都側の入口には西総門があった。
慶長元年(1596)に完成したと伝えられる、天守は四重四階建て、総塗りごめ様式を取り入れた優美な城として名高く、
明治の廃城令でも破壊は免れ、昭和十一年には国宝に指定された。
しかし、昭和二十年七月、大垣大空襲により焼失してしまった。 」
現在の天守は、昭和三十四年(1959)に、乾櫓は昭和四十二年に鉄筋コンクリート構造で、
外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた。
「 天守再建の際、参考にされたの郡上八幡城である。
郡上八幡城は昭和八年(1933)に木造で再建されたが、参考にされたのが大垣城の天守で、大垣城そっくりの模擬天守となっていた。
平成二十二年(2011)、天守および乾隅櫓の改修工事が行われ、
戦後の再建時に改変された外観が史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修された。 」
小生が訪問したのは改修前で、写真もその時撮影したものである。
昭和六十年には戸田藩主入城三百五十年を記念して、隅櫓や土塀の一部が修景整備された。
現在の東門は大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口とあった大垣城の七口之門の一つで、
天守が復元された昭和三十四年(1959)に現在地に移築された。
大手門は現在の広峯神社の場所にあったと、説明板にある。
「 大垣城の七口之門のなかでも、大手口御門(東大手)は城の正門で、
始めに高麗門と呼ばれる第一の門をくぐって、
左に折れると威風堂々とした第二の門である櫓門に突き当たる二重の城門を配した枡形形式の堅固なものだった。 」
明治四年(1871)に大手門をとり壊した際、枡形の地形そのままにして、広峯神社が移築された。
そのため、同神社境内は大手門北部の原形をよくどどめ、東側の石垣は往時のままである。
広峯神社の鳥居前の説明板 「 大手門は大垣城の東にあり、大垣城の正門である。
町屋の本町に通じていた。 現在広峯神社が建てられており、神社の東の水路がかっての内堀である。
城主氏家常陸介直元(卜全)のとき、松之丸に住んでいた松井喜右衛門に替え地をさせ、この地の警護を命じた。 」
大垣城の詳細(訪問記)は、
古城めぐり「大垣城・墨俣城」をご覧ください。
所在地:岐阜県大垣市郭町2丁目52
JR東海道本線大垣駅から徒歩約7分
大垣城のスタンプは天守閣(9時〜17時 火休)の受付の向い側にある
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