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蘭丸公園 | 出丸跡 | 出丸櫓跡 |
出丸櫓の東側から蘭丸産湯井戸の横を抜け、大手道が山麓を通じていた。
大手道の階段を上ると、直登の坂で、何度か折れ曲がる。
「三の丸門跡」の説明板があり、
「 これは門の礎石です。 この門を過ぎると水の手、二の丸に出る。」 とあり、
門の礎石は表が平らに加工されていた。
三の丸の左側の斜面はかなりの切石になっている。
三の丸門跡の右側に残る石垣の隅部が壊されている。 この斜面の上に二の丸がある。
三の丸門跡を出てそのまま進むと正面にあるのが三の丸跡。
「 三の丸は西腰曲輪の南側に位置する郭で、
厩などが設けられていたと考えられ、
中央部に見張櫓、南側に三の丸門が設けられていた。
中央の盛り上がったところにあったのは二層の櫓、見張櫓で、
東西約六・五メートル、南北約五・五メートルの台地上に建てられていた。
ここは三の丸、二の丸、西腰曲輪、北方物見櫓へ通ずる要所で、
金山城の最重要箇所だったが、昭和二十九年(1954)の「古城山払下記念碑」の建設などにより、
原型は崩されて礎石や石垣などの残石がそのままの状態で西腰曲輪などに散乱している。 」
三の丸の右奥に谷部へ進む坂道がある。
「水の手」の説明板があるが、その先はロープで封されていて、侵入禁止である。
説明板
「 これより水の手門を通り、水の手に達する。
平右衛谷と称する断崖上にあり、年中清水が湧出する城内生活飲用水補給場所。 この先危険。 」
水の手は金山城の北西側に存在した湧水で、
水手門の先にある水の手道とよばれる道を通って城兵はここまで飲料水を汲みに来たという。
東腰曲輪にも天水井戸があったが、飲料用ではないので、城中生活の飲料水はここに依存していた。
三の丸門跡 | 三の丸跡 | 水の手門跡 |
石段を上って二の丸へ。
二の丸奥の一段上にあるのは、本丸の周囲に築かれた南腰曲輪である。
二の丸は南腰曲輪の南側に位置する郭で、南側に見張櫓、
北側に二の丸門中央の広い空地に侍屋敷があった。
説明板「二の丸跡」
「 石段を上がって二の丸へ入る周囲には土塁囲いらしく、
二の丸門、侍屋敷、物見櫓などの諸施設があった。 」
二の丸門は二の丸の北側あった門で、両側とも土塀と隣接していた。 現在は礎石が残るのみである。
説明板「二の丸物見櫓跡」
「 二の丸南端に位置し、敵状監視の最適地、南方にひろがる丘陵に明智光秀の居城、
長山城跡、西方に中山道太田宿、東方に久々利浅間山や恵那方面が望見される。 」
今は木々が生い茂りここから眺望は望めない。
物見櫓は二層の櫓で、二棟の建物から形成された天守台に匹敵する広さで、
櫓からは城の東側周囲を見渡すことができ、
金山城の敵勢監視をするために重要な櫓だったようである。
二の丸から石段があったような道を上がって行くと、
正面にくずれかかった石垣が見えてくる。
正面の石垣の上は本丸で、ここは大手枡形跡である。
「 本丸と腰曲輪に繋がる大手枡形虎口で、
石段と枡形を構成した石垣が残る。
大手枡形は二の丸から本丸へ登る途中にある門や土塀に囲まれた正方形の平地で、
敵の進む勢いを鈍らせるためのものである。 」
大手門(通称、一の門、追手門、表門)は門の両脇に潜り門とし、
更に両脇に袖塀をつけていた。
二の丸跡 | 二の丸物見櫓跡 | 大手枡形(一の門跡) |
大手門を過ぎると、右手の三段の石段の上に二の門が設けられていた。
「 大手枡形は南北約九メートル、東西約十二メートルの大きさで、
普段は武士達への威厳を示す場所であり、ここまで来た武士は呼吸を整えながら、
本丸へ登るために衣紋の乱れなどを直していた。
大手門は慶長五年(1600)金山城破城の際に犬山城へ移築されて、
内田御門に使用された。
また、二の門(通称、裏門、出口門)も犬山城へ移築され、高麗門に使用された。
その後、犬山市の瑞泉寺に表門と裏門として移築され、現存するという。 」
大手枡形を越えて腰曲輪へ。 本丸の南側直下にあたる南腰曲輪。
「 南腰曲輪の規模は三百二十uで、周囲を高土塁と石垣で固め、 中央に三棟の建物から構成された一重の武器櫓が建られていた。 出入口は北側中央部にあったようだが、今は礎石が残るだけである。 」
北側の森の奥に聳える高土塁の上にあるのが本丸で、 南曲輪から本丸へは本丸の東側に沿って奥に進み、坂道を上がる構造になっている。
説明板「天守台西南隅石」
「 長形の角石を交互に組み合わせ、算木積みにしたもので、これにより石垣がいっそう堅固になっている。 」
今は下部の数段しか石垣はなく、上部はくずれたのか土がむきだしになっている。
大手枡形(二の門跡) | 大手枡形(二の門跡) | 天守台西南隅石 |
階段を上ったところが金山城の中枢、本丸で、入口には枡形の本丸虎口がある。
「 本丸は古城山の山頂にあり、中央部に本丸御殿、
南西側に西南隅櫓があった。
周囲は土塀で囲まれ、北側に天守、南東側に小天守、小天守の南西側には袖櫓が建られた。 」
本丸御殿は城主の居館として使用された建物で、東西約十一メートル、南北約十三メートルで、二棟の建物があり、南棟の南側には廊下が存在したようである。
建物の丸石の礎石が等間隔に並んで残っている。
本丸の北西側には「史跡金山城址」の石碑があるが、
建てられたのは昭和四十五年で、森可成が討死した年から四百年を記念して建てられた。
その右奥(北側)に天守と小天守が建てられていた。
「 天守は二重二階の層塔型で、
安土城の天守とほぼ同時期に造られたとみられる。
南東側で接続していたのが小天守で、西側で柚櫓と隣接していた。 」
本丸虎口 | 本丸御殿跡 | 史跡金山城址碑 |
その先(本丸の東側)は搦手(裏口)である。
こちら側の石垣は比較的残っていて、
この上に天守と小天守が建っていた。
また、石垣の下には天水井戸が設けられていた。
「 深さ約一・四メートル、幅一・五メートル、 長さは二・五メートルの井戸で、 山頂にあることから雨水を貯めていた井戸と考えられている。 」
その先の林の中に「東腰曲輪」の説明板があった。
「 搦手の重要施設、本丸の最終防衛線で土塀や侍屋敷の礎石がある。 」
東腰曲輪は北側には野面積みの東西約十メートル、高さ約三メートルの石垣を築き、
東西約二十一メートル、面積は三百三十uの曲輪であった。
上記の石垣の下や今は林になっているところにも侍屋敷があったと思われる。
その先(東腰曲輪の南東隅東斜面)に「搦手門礎石」の説明板があり、
その先に階段状の下る道がある。
説明板 「搦手門礎石」
「 搦手の左近屋敷から東腰曲輪に入る重要な門で、丸石はその礎石である。 」
搦手門は本丸から左近屋敷へ向かう途中に置かれていた門で、
長さは約二十メートル、幅約五・六メートル。
今は礎石とわずかに土塁が残っているでだけである。
なお、左近屋敷は森氏の家老、細野左近の館である。
「 左近屋敷は削平にした東西約十四メートル、
南北約十五メートルの台地上の東端にあった。
また、左近屋敷の南側には約六メートル四方の台地の上に、
「南東方物見櫓」と呼ばれる物見台があった。
ここには大堀切が切られていて、いざと云う時には交通が遮断される工夫があった。 」
大堀切は、出丸に通じる車道の三叉路の奥で、見ることができる。
東腰曲輪石垣と侍屋敷跡 | 搦手門跡 | 大堀切 |
所在地:岐阜県可児市兼山常磐町
名鉄広見線明智駅からYAOバスで元兼山町役場前で下車、徒歩約20分
美濃金山城のスタンプは町営駐車場隣の可児市観光交流館(可児市兼山674−1 8時30分〜22時)にある