続日本100名城 (142) 苗木城(なえぎじょう)






苗木城は中津川市内を左右(東西)に流れる木曽川の北側(右岸)にあった遠山氏の居城である。 

「 苗木城の別名は霞ケ城、大永、天文年間(16世紀前期〜中期)に遠山正廉が築いたとされるが、 諸説あるようである。 
遠山氏は鎌倉時代初期、岩村城を本拠地として恵那郡を統治した遠山荘の地頭で、 室町時代には守護土岐氏の支配下にあり、応仁の乱で信濃の小笠原、木曽氏の侵略を受け、 美濃守護の勢力が衰えた。 
遠山正廉は、天文二十一年(1552)、断絶した苗木家の養子となり、手賀野に館を築いて入り、 後に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)に拠点を移し、高森山砦を拡張し、 苗木城主になったとされるので、、  苗木城が高森に築かれたのは天文年間(1532年〜1555年)のことだろう。 
城主の遠山正廉は、東濃地方の覇権を狙う勢力に振り回され、斎藤氏、武田氏、織田氏と通じ、 信長の妹を娶り、勝頼の室として娘を信長の養女として嫁がせている。 
永禄十二年(1569)の戦いで矢傷を負い、それが原因で死去する。 
信長は遠山七家の一つ、飯羽間遠山家の遠山友勝を後継者にした。 
友勝の死後、三男友忠とその子友政が苗木城に入ったが、 天正十一年(1583)に、森長可により攻撃を受け、苗木城を追われ、遠山友政は徳川家康の配下に置かれた。 
慶長四年(1599)、秀吉の命により、川尻直次が苗木城主となり、城代、関治兵衛が城を守る。 
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、遠山友政は、中山道を進んだ徳川秀忠の東濃入りに参加し、 城主川尻氏不在の苗木城を攻め、落城させた。 
友政は徳川家康から苗木領を安堵され、苗木城と恵那郡、加茂郡一万五百石の苗木藩が誕生する。 
以後、江戸時代を通じ、十二代にわたり遠山氏が苗木藩主を務めたが、 明治四年(1871)、廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、城の建物は取り壊された。 」

苗木城は木曽川の北に一段と高くそびえる標高四百三十二メートルの城山に築かれ ていて、木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約百七十メートルある。 
岩山の上で利用できる土地の確保が困難だったため、建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど、 自然の地形を生かして築かれた山城である。 
下の左側は現在の苗木城全景である。 
天守跡には当時の柱穴を利用して展望台が建つ。 
天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが 苗木城の大きな特徴で、岩の上や岩を囲いながら積まれるなど、 地形の制約を受けた積み方がみられることがあげられる。 

苗木城跡全景
          苗木城天守台跡
苗木城全景苗木城天守台跡



苗木城の城域は、内郭部分が約二万平方メートル、外郭部も含めると約三十五万平方メートルで、 そのうち十五万平方メートルが国の史跡に指定された。 

「 赤壁城という別名は、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたからと伝えられる。 
その理由について、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、 何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が残されているが、 幕末期に一万石で城持ちの藩は苗木藩のみだったことから、 藩政が弱体で、漆喰を塗る経費が捻出できなかったのではいわれる。
城の縄張りは本丸、二の丸、三の丸等で構成され、 残っている城の絵図から十七世紀の中頃には、近世城郭としての苗木城の姿が完成していたと思われる。 」

大手口道は長さ五百メートル、高低差百五十メートルあり、四十八曲り道といわれている。 
城跡には巨大な自然石である馬洗岩、 本丸、二の丸、 三の丸などの石垣や大矢倉跡、風吹門跡、綿倉門などの門跡、堀が残っている。 
菱櫓台の下には千石井戸と呼ばれる井戸が残っている。 
建築物としては城門のひとつ、大手門の扉と柱が残り、 苗木遠山史料館(中津川市苗木2897の2 0573-66-8181)にて展示されている。 

大手道
     菱櫓門跡      笠置櫓跡
大手道菱櫓門跡笠置櫓跡



苗木城の詳細(訪問記)は、 古城めぐり「苗木城」をご覧ください。

所在地:岐阜県中津川市苗木   
JR中央本線中津川駅からバスで20分、苗木バス停下車、徒歩30分  
苗木城のスタンプは麓の苗木遠山史料館(中津川市苗木2897の2 0573-66-8181 月休 年末年始休) に置かれている 



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