続日本100名城 (140) 玄蕃尾城(げんばおじょう)






玄蕃尾城は福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にあった山城である。 

「 玄蕃尾城(内中尾山城)は、天正十一年(1583)、賤ヶ岳合戦に際し、越前北ノ庄城主だった柴田修理亮勝家の本陣となった山城である。 
勝利した秀吉は余呉湖の周辺に砦を持ち、東野山城、田上城、賤ヶ岳城を獲得し、攻撃したが、 勝家は柳ヶ瀬の南、狐塚から西方の集福寺坂の北側に砦八つと、刀根坂にある玄蕃尾城で対抗した。 
玄蕃尾城の築城時期については諸説あり、朝倉氏の家臣が築いた山城を勝家軍が整備という説と 天正六年頃、柴田勝家が北国街道を整備した際に越前衆を使い築城したという説、 天正十〜十一年頃 羽柴秀吉との戦いに備え、勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城という説がある。 」

敦賀市が用意したパンフレットには、 「玄蕃尾城の名は勝家配下の勇将、佐久間玄蕃允盛政によるものと地元では伝えられている。」 とある。 
敦賀市から西近江路、塩津街道を通り、北陸道が走る三叉路で左に入る県道140号を行くと柳ヶ瀬トンネルの入口に至る。 
柳ヶ瀬トンネル前には玄蕃尾城跡駐車場へ至る林道入口の案内標識があり、 それに従って林道の茶色の看板に従って進むと約二キロ南の駐車場に到着する。 

「 玄蕃尾城は柳ヶ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、 織田と朝倉が戦った刀根坂の戦いの舞台の刀根越(倉坂、久々坂ともいう)がすぐ南にある。  また、北国街道(国道365号)が見下ろせる軍事上の要所に位置している。 
南側の行市山には、中尾山と行市山を結ぶ軍道を整備したと伝わる勝家の家臣、佐久間玄蕃允盛政の砦があったという。 
賤ヶ岳合戦では、勝家は戦わずこの城から撤退し、その後手つかずに残られたことから、山城の構造が合戦当時のまま保存されているといわれる。 
そうしたことから、平成十一年(1999)、「玄藩尾城(内中尾山城)跡」として、国の史跡に指定された。 」

玄蕃尾城は、賤ヶ岳合戦で勝家、秀吉の両軍が布陣した山城の中でも、空堀の深さ、土塁の高さが際立っている。 
城は南北に並んだ四つの郭が土橋で連結され、南北約二百五十メートル、東西約百五十メートルの広さである。 
すべての郭は高土塁で囲まれ、主要な部分には土塁と空堀の多重防御を施している。 

「 南側(刀根山峠方面)にある郭1の虎口の木戸は内外二重に構えられ、内の木戸は厳重に隠されている。 
郭の西南側から空掘になっていて、堀に沿って進んだ敵は知らない内に袋小路に追い込まれる。 
郭1の北側に虎口郭がある。 郭1との間は塀と土塁により、土橋で繋がっていて、 土橋を渡る敵に対し、正面と左側の虎口郭から攻撃できる。 」

虎口郭は北国街道から向う最短ルートである。 

「 東南の谷筋に開口していて、馬出郭からこの郭を経て、一気に攻撃できる構造になっている。 
馬出部は本丸の虎口の機能を果たし、かつ、三方に横矢を利かして突出している。 
出枡形で本丸虎口を果たしながら、敵に対して屈曲を強いるという完成度の高い構造である。 」

中央にある主郭は四十五メートル四方の方形で、周囲を高土塁と堀で厳重に囲んでいる。

「 南北一ヶ所に設けられた虎口は喰い違いで、土橋で外枡形とつながっている。 
主郭の北東角は一段高くなった方形で、礎石も見られることから櫓台があったと推定される。 
主郭北側の搦手の郭2は比較的単純な形だが、喰い違いや折れを用いている。  城内で一番広い郭で、兵糧などの物資の集貯地や兵の駐屯地だったと思われる。 」


所在地:福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬の県境にある。  
公共交通機関で行くことは難しい。 
駐車場にはトイレと受付ポストがあり、入城者の記名と城の案内パンフレットがある。
また、続100名城のスタンプもある。 但し、設置されているのは4月13日〜11月末の予定という。 



 戻る(日本100名城表紙)




かうんたぁ。