続日本100名城 (139) 佐柿国吉城(さがきくによしじょう)






佐柿国吉城は 、粟屋越中守勝久が弘治二年(1556)に、常国国吉が築いた城跡を改修して築城した、若狭と越前との境を守備する「境目の城」である。

「 佐柿国吉城はJR小浜線美浜駅の東方一キロ弱の城山にあった山城である。 
越前国と若狭国の国境である関峠を過ぎ、若狭国に入り、旧丹後街道を進んでいくと椿峠がある。 
越前から若狭に入るには必ず通る峠で、北に天王山、南に御岳山があり、 御岳山の北西尾根端にある標高約二百メートルに築かれたのが国吉城である。 
平成二十九年(2017)に選定された続日本100名城では福井県美浜町佐柿にあることから、 佐柿国吉城となっているが、一般的には国吉城と呼ばれている。 
若狭国守護武田氏の重臣、粟屋越中守勝久が、 弘治二年(1556)、常国国吉(つねくにくによし)が築いた城跡を改修して、築城したと言われ、若狭国と越前国の境を守備する「境目の城」であった。 
永禄六年(1563)、越前朝倉氏が侵攻し、国吉城を攻めたが、粟屋勝久は周辺の地侍や民衆と共に城に籠ってこれを撃退し、 以降、朝倉氏が滅亡する天正元年(1573)まで、ほぼ毎年攻めかかる朝倉勢を撃退し続けた。 
朝倉氏との激しい戦いの様子は、江戸時代に記された軍記「若州三方郡国吉籠城記」に記されている。 
元亀元年(1570)四月、朝倉攻めに向かう織田信長の軍勢に加わり、 織田信長が入城した際、長年にわたる勝久の戦いぶりを賞賛したと伝わる。 
天正十一年(1583)、豊臣秀吉の家臣、木村常陸介定光が城主となり、国吉城を石垣造りの城に改修したほか、 城下町の整備を行い、今に残る佐柿の歴史的町並みの基礎を造った。 
江戸時代初めに国吉城は廃城となったが、しばらくは城としての機能をもっていたと考えられている。  」

国吉城は中世の城の典型的形態で、麓の居館と山城で構成されている。 
麓には居館とみられる石垣が確認されていて、平時は居館で生活し、戦争時には山城に籠もるという、戦国時代の典型的な形態の城であった。

「 城主と家臣の屋敷である居館部は、城山の南西麓付近の谷筋に開削された段状の平地にあった、と伝えられていたが、 発掘調査により、土塁や石垣、石組みの溝、建物の礎石が発見され、 その後の調査で居館跡の正面に大規模な石垣が発見された、という。 
これは十六世紀末から十七世紀初めに築かれたとみられており、 江戸時代に入ってからもしばらくは城としての機能をもっていたと考えられている。 」

居館跡から九十九折りの山道が続いていて、中腹に二の丸跡と伝えられる出丸がある。 

「 この出丸は食い違いの虎口を持ち、周囲を高さ二メートル以上の高土塁で囲った堅固な構造である。 」

城山の山頂は平たく開削された土地で、大正期に設置された「国吉城址」の石碑が建っている。 

「 ここが本丸跡で、本丸には東と北西の二ヶ所に平虎口を設け、周囲の斜面に部分的に石垣が残存している。 
また、周囲で見つかった石仏、仏頭、五輪塔が何箇所かに集められているが、 これは籠城戦の際に防御に使用した投石という。 」

近年、発掘調査や整備が進み、曲輪、石垣、土塁、堀切といった山城の構造物を見ることができる。 

「 本丸の北西虎口は北西の尾根に連結し、五つの曲輪が階段状に連なる連郭式構造となっているが、  この構造は若狭の山城の特徴である。 
各曲輪の斜面は急勾配で、かつ高低差も大きく、容易に登ることができない構造になっている。 」

本丸の東虎口は尾根伝いに腰越坂(こしごえさか)を経由し、国吉城の砦である岩出山砦跡につながっている。 また、曲輪を通過し、そのまま尾根を下りきると、妙見堂を経由し、椿峠近くの旧丹後街道に出ることができるようになっている。

「 江戸時代初めに国吉城は廃城となったが、若狭と越前との国境なので、 寛永十一年(1634)、小浜藩主になった酒井忠勝は、佐柿町奉行所を設置し、茶屋屋敷を造っている。 
享和三年(1803)に佐柿陣屋となったが、江戸時代の佐柿城下は丹後街道の宿場として繁栄した。 
幕末には敦賀で処刑された水戸浪士の生き残りが収容された准藩士屋敷があった。 」

佐柿町奉行所の跡地に平成二十一年(2009)に「若狭国吉城歴史資料館(月休、9〜17時)」が造られたが、石垣などが残っている。 

所在地:福井県美浜町佐柿   
JR小浜線美浜駅の東方一キロ弱  
佐柿国吉城のスタンプは若狭国吉城歴史資料館(月休、4月〜11月 9時〜17時、12月〜3月10時〜16時30分 0770−32−0050)の受付にある 



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