続日本100名城 (138) 越前大野城(えちぜんおおのじょう)
越前大野城は天正三年(1575年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として、越前国大野郡の内の三万石を与えられた金森長近が築いた城である。
「 金森長近は、天正四年(1576)、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築き始め、数年間を要し越前大野城を完成させた。
金森長近が飛騨高山へ移封の後の城主は、豊臣秀吉の一族といわれる青木一矩(かずのり)や 信長の孫、織田秀雄(ひでかつ)などが入った。
江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主、結城秀康(松平秀康)の有力な家臣、土屋正明が大野城主を務めた。
その後、越前松平家が三代続いた後、天領となり、土井氏で定着するまで目まぐるしく城主が替わった。
天和二年(1682)、大老土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、
幕末まで約百八十年の間、土井家から八人が城主となった。
安永四年(1775)に城は焼失し、寛政七年(1795)に天守を除いて再建されたが、
明治維新後の明治五年(1872)に入札により、本丸が商人など二十人以上に払い下げられ、城は破却された。 」
現在、越前大野城の遺跡として残るのは、山頂の石垣および堀、山麓部の内堀および外堀の一部だけである。
越前大野城の天守は亀山の山頂にある天守曲輪に建てられ、
望楼付きの二重三階の大天守に二重二階の小天守、天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が付属された、複合連結式の天守であった。
現在の天守は昭和四十三年(1968)に建てられた模擬天守である。
「 現在の天守は、元士族の萩原貞氏の寄付金を元に、
往時の絵図や創建同時期の他の城の天守を参考にして鉄筋コンクリート構造によって建てられた。
小天守が天狗の間の位置に建てられているなど、史実と違うので復元天守ではない。
館内は金森氏や土井氏など歴代の城主に関する資料を展示した資料館になっている。 」
天守の東には逆L字の有終西小学校の建物と校庭、道の先には武家屋敷内山家があるが、
このあたり一帯が二の丸跡である。
大野の城下町は京都のような整然とした区割りがされ、今も通りにうだつが上がる家がある。
残存する大野城の建造物としては、不明門(あかずのもん)が市内中丁真乗寺山門として、櫓門であった鳩門の門部分が光明寺山門として
移築され、残っている。 また、八代藩主利忠の隠居所が柳廼社社務所として移築現存する。
最近、越前大野城は霧で包まれた風景で有名になったが、係員の話では年に何回しかないとのことだった。
所在地:福井県大野市城町3−109
福井駅から越美北線または京福バスで越前大野駅下車、徒歩30分
越前大野城のスタンプは天守1F(300円 4月〜9月9時〜17時 10月〜11月9時〜16時 12月〜3月は休館 ) にて
休館の12月〜3月は武家屋敷旧田村家にて
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