続日本100名城 (137) 福井城(ふくいじょう)
福井城は柴田勝家が築いた北ノ庄城の跡に家康の次男、結城秀康が福井藩六十八万石の居城として築いた城である。
「 福井城を最初に築いたのは、朝倉氏の滅亡後、一向一揆を平定した功績により、
越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家である。
柴田勝家は天正三年(1575)、北ノ庄に九階の天守閣を持つ巨大な近世城郭を築いたとされ、
当時は北ノ庄城と呼ばれていた。
ルイスフロイスの記録によると、 屋根は丸岡城と同じく石瓦葺(福井名産の笏谷石)で、
街の規模は安土城の二倍はあったという。
本能寺後の天正十年(1582)の清須城での清洲会議で、勝家は秀吉と対立し、
翌天正十一年(1583)、賤ヶ岳の戦いに敗れ、勝家は北の庄城まで撤退するも、秀吉軍に城を包囲されてしまう。
追い詰められた勝家は自ら城に火を放ち、妻のお市と共に最後を遂げ、建造物のほぼ全てが焼失しまう。
慶長五年(1600)、家康の次男、結城秀康が六十八万石で北ノ庄に入封されると、
翌慶長六年(1601)、北ノ庄城の跡地に築城を開始され、
慶長九年(1604)、秀康が松平氏を名乗ることを許され、松平秀康となり、
この城は名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、
全国諸大名の御手伝普請で約六年の歳月をかけて完成した。
当初は北ノ庄城としていたが、福井藩三代目藩主松平忠昌により、寛永元年(1624)、
北ノ庄から福居に改名され、さらに後に福井と改名された。
明治維新後の廃城令により、本丸御殿の一部が市内足羽5丁目の瑞源寺本堂及び書院に移築されているが、
その他の建物は廃却され、外掘りも埋められてしまった。
現在、本丸跡に福井県庁、県会議事堂、県警察本部など建っているが、城の北西部は福井城内堀公園として整備されている。 」
福井駅の北西の駅前商店街の奥にある柴田神社が「北の庄城跡」で、「北の庄城址・柴田公園」の石碑が建っている。
柴田神社周辺は、柴田勝家が築いた北の庄城(1575-1583)の天守閣跡と伝えられる。
説明板
「 後に北ノ庄に入った結城秀康が、跡地の上に新たに城を築いたため、 その遺構は殆ど残っていないが、
発掘調査の結果、一部が見つかった。 」
神社境内の勝家公の銅像の向かい側の大きな穴の中に、石がいくつか露出している部分がある。
説明板
「 これが北の庄城の石垣と堀の遺構である。 この石垣は、本来は高く積まれていたが、江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し、取り除かれ、石垣の礎石のみ残ったと考えられる。」
柴田神社拝殿下の石垣は発掘された状態で展示されている。
説明板
「 この石垣は福井城の三の丸の南に位置する曲輪の南西にあたり、当時は今の石垣よりさらに数段高く積まれていた。
堀はここより西の約百五十メートル続き、堀の幅は約十八メートルあった。 」
現在、本丸跡に福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあるが、北西部は福井城内堀公園として整備されていて、
内堀、石垣、天守台などの遺構が残っている。
「 家康の次男、結城秀康が福井藩六十八万石の居城として築いた城は 二キロメートル四方に及び、
五重の水堀が囲む本丸北西隅に天守曲輪と天守台の二段の石垣をついて望楼型四重五階の天守が建てられた城であった。 」
福井城本丸復元図にはその様子を見ることができる。
県警察本部の奥に天守台がある。
「 天守の高さは天守台も含めて約三十七メートルで、白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、
最上重には外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような配置に破風が並べられていたという。
しかし、寛文九年(1669)に焼失した後は、藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなく、
同じように類焼した本丸南西隅の二重巽櫓を三重櫓で再建し、天守の代用とした。 」
天守台のそばに福の井という井戸があり、この井戸が福井の地明の語源由来となったという説がある。
また、この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがある。
本丸の西側に御廊下橋が復元された。 現在、山里御門の復元工事が進められている。
続日本100名城のスタンプは県庁正面入口横の守衛室に用意されている。
土日祝日に押す場合は、県庁入口の左側入口にあるインターホンから守衛さんにスタンプを押したいと伝えてください。
福井城の詳細(訪問記)は、
古城めぐり「福井城・北ノ庄城」をご覧ください。
所在地:福井市大手町3丁目17−1
JR北陸本線福井駅から徒歩5分
福井城のスタンプは福井県庁1Fの受付(8時30分〜17時15分 土、日、祝日休)
県庁休館の時は山里口の櫓門の2Fに押印済みの用紙が置かれている
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