続日本100名城 (135) 増山城(ますやまじょう)






増山城は神保氏の本拠地となった城で、砺波市増山の和田川右岸の山上に築かれた山城である。
松倉城(魚津市)、守山城(高岡市)と並び、越中三大山城と称された城である。  

「 増山城は南北朝時代の貞治二年(1363)には存在していたようで、 当初は南朝方で越中守護であった桃井直常の勢力が守備していたが、後に足利幕府軍により攻略されたとみられる。
戦国時代には越中国の大豪族だった神保氏の居城となり、永禄三年(1560)に、神保長職が椎名康胤と対立し、 上杉謙信により富山城が攻略された後、この増山城に立て籠もり、上杉軍の攻撃をかわした。 
その時の増山城のことを上杉謙信は 「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニも手堅相抱候間」 と書状に 残していて、要害堅固な城だったことが分かる。 
その後、永禄五年(1562)に二度上杉信玄の攻撃を受け、 神保長職が上杉氏に降伏した後は、増山城が神保氏の本拠地となる。 
永禄十一年(1568)、神保氏の反上杉派が一向一揆と結んで抵抗したため、天正四年(1576)、上杉謙信により攻略された。 
上杉氏の武将、吉江宗信が増山城を守っていたが、天正九年(1581) 織田軍の攻撃により落城した。  この時、焼き討ちにあったようで、城跡からは焼土などが出土する。 
織田氏の重臣、佐々成政の持ち城となり、重臣、佐々平左衛門や佐々源六(勝之)、直属の馬廻り衆を入れて守っていた。 
佐々成政が豊臣秀吉の越中征伐により降伏した後は、前田氏の持ち城となり、 中川光重、山崎長鏡が城代を務めたが、元和の一国一城令により廃城となった。  」

増山城は和田川ダムのダム湖、増山湖のそばにあり、 湖の東側にそびえる比高百二十メートルの山全体が増山城跡である。 
登城道は増山大橋を渡り、山の西側から入る七曲り口ルート、 和田川ダムを渡って山の北側から山道を登るウラナギ口ルート、 小判清水がある地点から登るルートの三つがある。 
和田川ダム施設の隣に案内施設、増山陣屋があり、広い駐車場があるので、このルートが良い。 
増山城と亀山城のパンフレットがあり、それにくわしい地図がある。 この道が大手道である。 

「 増山城は国史跡の指定を受けており、また、続日本100名城に選定されたので、 今後更に整備が進むと期待しているが、中世の山城なので、トレッキングの装備で、登城には慎重さが求められる。 
また、郭や堀切、土塁は残っているが、ほどんどがブッシュの中にあるので、 近代的城郭を想像して訪れると期待が裏切られることになる。 」

冠木門が和田川ダムを渡ったところにあり、そこからかなりきつい谷道を上ると両側の尾根に巨大な堀切がある。 
その先は馬の背(小規模ながらF郭)で、和田川側と七曲り側に土塁がある。 
七曲りを上りきると一の丸の虎口があり、右上に一の丸がある。 
スタートからと登り勾配が続くので、一の丸への入り口までなかなか大変である。 
一の丸は、西側の二の丸を守るための曲輪と思われるが、 一の丸西側には巨大な竪堀があり、切岸は絶壁で高く、見所の一つである。 
「←又兵衛清水 二の丸→」の道標があり、二の丸北側直下に又兵衛清水がある。 
又兵衛清水はとやま名水百選に選ばれているが、飲料には適さないようである。 
二の丸虎口は屈曲する外枡形。 その先の左側に「二の丸」の石柱があり手造り感たっぶりの門がある。 
二の丸は増山城の曲輪の中では最も広く、他の曲輪に守られていて最も入りにくい曲輪といえるが、 増山城の主郭である。 
ここには鐘楼堂、櫓台、神水鉢がある。  二の丸西隅には櫓台がある。 今は樹木に覆われた小山という感じであるが・・・ 
二の丸には神水鉢があり、神保城主がこの水鉢に映る月影で時刻を知ったとされる。 
奥には鐘撞堂の櫓台が見える。 東の土塁の下に馬洗池が見える。 
向う側には安室屋敷の曲輪が見え、櫓台が確認できる。 
二の丸の南側に横堀と土塁が設けられている。 
二の丸から南の方向に向うと、右下に西側のヘッタリと呼ばれる腰曲輪が見える。 
二の丸の南側には無常と呼ばれる曲輪、その先に鐘撞堂、最も南側には南櫓台があり、 東西に巨大な堀切ががあり、城を守っている。 
この堀切はかなり深く長い大規模なもので一見の価値がある。 
また、南西側の斜面には畝状竪堀群があり、見所の一つである。 
堀切の西側に右久上空堀群に下る道がある。 
鐘撞堂は増山城で一番高いところで、鐘撞堂櫓台は大きな丘のようである。 
この後、安室屋敷の曲輪へ。 二の丸と安室屋敷の間の堀切はかなり深い。 
安室屋敷には切岸をはしごで上っていく。  昔は安室屋敷と鐘楼堂の間に木橋が架かっていたと考えられる。 
安室屋敷の南に櫓台、北側に土塁がある。 東側は堀切で、向うに三の丸が見える。 
安室屋敷と三の丸の間の横堀から北側に入ると、二重の空堀で守られていることが分かり、 さらに土塁が間にあって外部からの侵入を遮断している。  ここからの侵入は極めて困難だと言えるだろう。 
二の丸と三の丸の間には馬洗池があり、三の丸に入るには馬洗池側から入る。  城主の馬を洗ったと言われるもので、今も水をたたえている。 
馬洗池は馬洗池の南に位置するするのはK郭、こちらは完全にブッシュで入りにくい。  その南には深い堀切がある。 
三の丸の東側と北側には土塁がある。 L郭方面に延びる横堀がある。  御所山屋敷跡の北側に横堀、足軽屋敷跡には標示板がある。 
池ノ平等屋敷跡へ。 周囲が土塁で守られている。 
神保夫人入水井戸の説明板がある。 井戸はかなり深く、今も水をたたえている。 

説明板
「 神保氏は逃げたのに、夫人は果敢に戦い、戦闘して果てた。 」

その先が小判清水口で、小判清水の向い側には亀山城と孫次山砦がある。
亀山城は増山城の支城だが、主郭があるだけの山城という規模である。 
しかし主郭までの道はけっこう険しく、増山城を攻めるにはこの城から落としておかないと背後から襲われるので危険で、  絶好の位置に支城が造られていたということになるだろう。

所在地:富山県砺波市増山   
JR城端線砺波駅の北東約五キロ   
増山城のスタンプは庄東小学校にある砺波市埋蔵文化センターしるし一階受付で。 



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かうんたぁ。