続日本100名城 (134) 富山城(とやまじょう)
富山城は神保長職により築かれた城を、前田利長が隠居城として改築したが、
その後、富山藩が誕生し、富山前田氏の居城になった。
「 富山城の始めは、天文十二年(1543)頃、神保長職により築かれた城である。
その後、拠点を構えた佐々成政により大規模な改修が行われたが、
天正十三年(1585)八月、豊臣秀吉との戦いに敗れ降伏し、廃城になる。
豊臣秀吉は、その際、前田利家の嫡子、利長に越中西三郡を与えた。
前田利長は富山城の大改修を行い、金沢城から移り住み隠居城としたが、
慶長十四年(1609)の火災で建物の主要部が焼失したため、高岡城を築いて移り、
富山城には家臣の津田義忠が城代として入れた。
寛永十六年(1639)、加賀藩第三代藩主、前田利常(利長の弟)は隠居するとき、
次男、三男に十万石を与えて分家させ、次男利次による富山藩が誕生した。
万治四年(1661)、幕府の許しを得て、富山城を本格的に修復し、また城下町を整えた。
富山城は、明治維新を迎えるまで富山前田氏十三代の居城となった。 」
富山城の別名は安住城、浮城で、梯郭式平城である。
神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見えることから浮城の異名をとった。
当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行していて、その南岸に富山城は築かれていたのである。
縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸を、東西に出丸を置き、本丸をそれら三つの郭で囲み、
更にそれを三の丸で凹状に囲む形のものだった。
当初の計画にあった天守は築かれなかったとみられる。
嘉永二年(1849)には、富山藩十代藩主、利保の隠居所として、千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。
「 明治四年(1871)の廃藩置県により、廃城となり、
本丸御殿は県庁舎、二の丸二階櫓御門は小学校に使用されたが、その他の建物は解体された。
本丸御殿も二の丸二階櫓御門もその後、壊されたので、当時の建造物は残っていない。 」
富山城は東西約六百八十メートル、南北約六百十メートルの敷地であったが、
現在、城址公園として残っているのは、本丸と西の丸、それらの南面の水堀および二の丸の一部のみで、
東西約二百九十五メートル、南北約二百四十メートルの範囲である。
昭和二十九年(1954)、富山産業大博覧会の開催を記念し、鉄筋コンクリート構造による模擬天守が建てられ、
富山市郷土博物館となった。
模擬天守東側に石垣が新造されているが、これも往時の歴史的な姿とは異なるものになっている。
「 富山城の石垣は主要な門の周囲のみで、他の部分は土塁であった。
また、安政五年(1858)の飛越地震により、本丸や二の丸、三の丸が破損したほか、石垣が崩れるなど、大きな被害を出している。 」
城の周囲を巡っていた水堀は、昭和三十七年(1962)までに順次埋め立てられ、
残っているのは本丸と西の丸の南側部分だけである。
千歳御殿の門が、平成十九年(2007)、明治時代に移築された豪農の赤祖父家から城址公園内(本丸東側)に移築された。
富山城の詳細(訪問記)は、
古城めぐり「高岡城・富山城」をご覧ください。
所在地:富山市本丸1−62
JR富山駅から徒歩約10分 富山鉄道市内軌道線で丸の内下車、すぐ
富山城のスタンプは郷土博物館になっている天守(9時〜17時、月休年末年始休)にて
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