続日本100名城 (133) 鮫ヶ尾城(さめがおじょう)
鮫ヶ尾城は、十六世紀後半の永正から天正年間に長尾氏により、築城されたと伝わる城である。
鮫ヶ尾城は、春日山城の前衛として普請された頸城地方最大の支城といわれる。
「 鮫ヶ尾城は、新潟県妙高市宮内にあった上杉氏配下の城で、
平成二十年(2008)に鮫ヶ尾城跡として国の史跡に指定された。
築城年は分かっていないが、永正から天正年間に上杉氏(長尾氏)により、
北国街道の防御を兼ねた街道整備の一環として、築城ないしは大規模改修がなされた、と伝わる城である。
上杉謙信の死後に勃発した越後を二分する大戦乱となった御館の乱に於いて、
城主である堀江宗親は、北条氏康の子の上杉三郎景虎側に付き、
御館落城後に関東への唯一の逃げ道となったこの城を経由して逃がすべく、景虎を城に引き入れる。
宗親は、その後、安田顕元の寝返り工作に応じ、二の丸に火を放って、宗親は退出してしまった。
総攻撃を受けた鮫ヶ尾城は落城し、景虎は妻子共々自刃して果てた。
現在も、米蔵跡からはその乱の時に焼けた米(焼き米)が出土するという。 文化財指定されている為、持ち出し禁止。
また、現地調査の際、熱を帯びた陶磁器や雑穀が混じっていないおにぎりが出土した。
一部の出土品は城跡下の管理センター、城跡近くに温泉施設「景虎の湯」に展示されている。
御館の乱で廃城になり、城郭構造の転換期とされる豊織期に増築改変がなされなかったことから、
信越国境の軍事的緊張が極度に高まった天文、永禄、元亀年間における山城構造を知るための好例とされる。 」
鮫ヶ尾城は、標高が百八十五メートルの低丘陵地を利用した山城で、
山城の北側と西側には深い沢、南側には河川が存在し、天然の要害と呼ぶにふさわしい地形である。
山頂曲輪を基点に三方に分岐する尾根のうち、東へ向けて長く、緩やかに下降していく稜線上を東登城道、
南へ向けて急勾配で下降する尾根筋を南登城道と呼んでいて、
現在でも、それぞれにおいて道方の痕跡を断続的に確認することができる。
堀切と曲輪、塩蔵の跡が残り、市役所では散策道の整備や案内板などの設置を進めているところという。
所在地:新潟県妙高市宮内
最も一般的な登城道として利用されているのは斐太歴史の里総合案内所を出発する遊歩道である。
JR北新井駅の二キロの所にある城山の麓に「斐太歴史の里」の駐車場があり、
高田城から車で二十分のところだが、その後はトレッキングの感覚で歩く必要がある。
なお、斐太神社横に無料駐車場があり、5分登ったところに斐太歴史の里総合案内所がある。
鮫ヶ尾城のスタンプは、斐太歴史の里総合案内所(4月〜11月中旬まで) にて、
冬期(12月〜3月)は、神の宮温泉かわら亭で受け付ける。
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