続日本100名城 (132) 高田城(たかだじょう)






高田城は、徳川家康の六男・松平忠輝により、慶長十九年(1614)に、 高田平野の菩提ヶ原に築城された平城である。

「 上杉景勝の国替えにより、上越に入った堀氏は、春日山城を廃し、 海の近くに、福島城を造った。 
慶長十五年(1610)、堀氏に代わり、徳川家康の六男、松平忠輝が福島城に六十万石で入国する。
慶長十九年(1614)、福島城を廃し、幕府の命令による天下普請で、高田平野の菩提ヶ原に高田城を築城された。 
天下普請では、加賀の前田利常や出羽の上杉景勝ら、 十三名の大名に築城に参加するよう命令が出された。
舅の伊達政宗(政宗の娘が忠輝の正室)が、城地の縄張りと工事の総監督を担当し、 わずか四ヶ月という短さで完成させた。  」

下記の絵図は光長時代の高田城である。

「 東に流れる関川を外堀として、支流の青田川などを西側の外堀とし、 その中央に約二百三十メートル四方の本丸を配置し、それをを取り巻くように二ノ丸、 南に三ノ丸、北に北の丸を配している。 
城の西側に、家臣団の屋敷を置き、町人は青田川の西に住ませ、北国街道を迂回させ、 更に西側を寺院で囲む城下町にする縄張である。 
天守は建てられず、三重三階の櫓を建てて天守の代用とした。
この時建てられた三重櫓は、寛文五年(1665)の高田地震で倒壊、その後、三重櫓は再建されたが、明治三年(1870)に焼失した。 
現在の建物は、平成五年(1993)に、外観を松平光長時代の本丸御殿図絵を基に、 大きさは稲葉正通時代の高田城図間尺を基にして、復興したものである。 
なお、続日本100名城のスタンプは、三重櫓の下の高田城三重櫓管理棟受付にある。 」

高田城は、すべての曲輪に、土塁が採用され、石垣は築かれなかった。 

「 石垣が建設されなかった理由は不詳だが、 良い建材に恵まれなかったという説や短期工事によるという説や地盤が弱かったという説などがあるが、 どれも当たっているような気がする。 
また、低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には暗渠が張り巡らされていたという。 」

高田城絵図
     三重櫓      石垣がない
光長時代の高田城絵図復元された三重櫓石垣がない城


地図の緑部分が高田公園である。

「 明治三年(1870)に本丸御殿、三重櫓などが焼失し、 明治六年(1873)の廃城令により、焼失しなかった建物も取り壊された。 
その後、陸軍第十三師団の駐屯地司令部として使用するために、 大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われた。
そのため、城地の東半分は、旧状をとどめていない。 
本丸を含めた西半分は、高田公園として整備され、 堀と土塁の一部が残されている。
本丸跡の西側の堀の外に、総合博物館・小林古径記念美術館や、 小林古径邸(有料)がある。 」

高田城は、日本三大夜桜のひとつに数えられる、夜桜の名所になっていて、 毎年四月、高田城百万人観桜会が開かれる。
写真は三重櫓の上から写した紅葉した秋の桜である。 

「 陸軍第十三師団が設置された時、 三千本を超すソメイヨシノが植栽されたもので、 本丸の周囲にもあるが、その外のさくらロードを中心に、 シダレ桜など並木道になっている。 」

高田駅近くの本町通りは、高田城の城下町であった時代からある。 

「  城下町の特色は、お城を囲むように、町が凹字型に配置され、 並行する南北二キロの通りが五本もある。
そのメイン道路が北国街道で、問屋や商店・旅籠などが軒を連ねて、 それぞれの職業に応じて、 奥行きが長く大きな吹き抜けがある町屋に、居住していた。 
その家々の軒先を公共の通路まで伸ばしたのが、雁木である。
雁木通りが造られているが、これは雪国ならではの光景である。 
城下の一番西に寺町が置かれた。
今も二本の寺町通りには六十六の寺院があるという。 」

高田公園
     桜の紅葉      雁木
緑部分が高田公園桜の紅葉雁木通り


所在地 : 新潟県上越市本城6−1   
トキ鉄妙高はねうまライン高田駅から徒歩約25分 
高田駅からくびき野バスで大手町十字路下車徒歩約2分   
高田城のスタンプは、三重櫓下の高田城三重櫓管理棟受付  (9時〜17時 月休、12/29-1/3休) と、 上越市立歴史博物館(9時〜17時) にある 



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かうんたぁ。