続日本100名城 (131) 村上城(むらかみじょう)






村上城は、村上市街の東方に位置し、別名を舞鶴城という。
明応末期(1500年頃)、越後小泉領主・本庄時長によって築かれた城を、、 戦国時代から江戸初期に、城主になった人達が改築に近世風の城郭に変わった。
築城されたのは、村上市街地東端にそびえる標高百三十五メートルの臥牛山の頂である。

二之町の村上法務合同庁舎の前を直進すると、 狭い道の行き止まりにある公園前に出た。
その先に、 「村上城跡」の石柱と、「七曲道」の道標がある。

本丸へ向かって、くねくねした七曲がりの道を上っていく。 

登っていくと、右側に石垣が現れた。
この石垣は江戸期のものである。

「村上城跡」の石柱と道標
     七曲道      江戸期の石垣
「村上城跡」の石柱と道標
七曲道
江戸期の石垣


そこに着くと、「四ッ門跡」の標柱があり、 両側の石垣は門を支える石垣である。

「国指定史跡 村上城跡」 の説明板が建っている。

説明板「国指定史跡 村上城跡」
「 村上城跡は、標高135メートルの臥牛山を中心に広がり、築城年代は 16世紀初頭と推定される。
城主は、国人領主の本庄時長であり、以降、房長・繁長と戦国期三代にわたる居城となる。
江戸期の元和四年(1618)には、徳川譜代の堀直寄(なおより)が10万石で入封し、 縄張りを行い、山上の曲輪を拡張し、石垣を築くなど、 それまでの中世的な城を近代城郭へと、変貌させた。
総構えの規模は、南北1.4km、東西2.3km。  山上は本丸・二の丸及び三の丸から成り、西側山麓には城主居館が配され、 東側には大小の曲輪が設けられていた。
慶安2年(1649)、譜代の松平直矩(なおのり)が、15万石で入封すると、 家臣数の増加に伴い、再び、城と城下の改築に着手する。
現存する石垣の多くが、このとき、積み替えられたものと、推定される。
村上城跡は、地形を巧みに利用した戦国期の遺構と、 新潟県下最大規模の江戸期の石垣とが、共存していることが、 他に類を見ない最大の特徴であり、中世と近世の両方の遺構を散策することができる。  」

更に登っていくと、石垣が右手に見えてきた。
手前の土には、田の形のようなくぼみがあり、それは何か気になった。
この石垣は、御鐘門の石垣と思った。

四ッ門跡
     「村上城跡」の説明板      御鐘門の石垣
四ッ門跡
「村上城跡」の説明板
御鐘門の石垣


この先に、「朝日・飯豊名峰の眺望」という看板がある。
看板の先に見えたのは、大平山を中心とした峰々である。
更に進むと、石垣が見えてきて、下に「出櫓跡」の標柱が建っている。
出櫓の石垣の上にあるのは、本丸の石垣である。

その先には、「冠木門跡」の標柱があり、両側に石垣が残っている。
石段を見ると、門の礎石と思われる、四角の穴がある石があった。

「朝日・飯豊名峰の眺望」の看板
     出櫓跡      冠木門跡
「朝日・飯豊名峰の眺望」の看板
出櫓跡
冠木門跡


頂上付近にある本丸跡に到着。
奥に、鳥居が二つ建っている。

その奥に石段があり、石段を上ると、本丸より少し高い土地に、 「天守跡」の標柱があり、その奥に「臥牛山 135m」の道標と百葉箱、 その奥に「舞鶴城跡」 と彫られた、大きな石碑が建っている。 

「 舞鶴城は、村上城の別名である。
村上城は、寛文七年(1667)の落雷で、天守は焼失し、その後、再建はされなかった。 」

ここからは村上市街が一望できるのはもちろん、日本海に沿ってある温泉方面も見ることができたので、江戸時代には会津方面から兵も監視できたのだろう。/p>

「 慶応四年(1868)の戊辰戦争で、 村上藩は親幕府派と新政府派とに分かれて分裂状態となり、官軍の攻撃を受けた村上藩兵が、山麓の居館に火を放って、庄内方面へ脱出した。 
明治三年(1870)、元藩主・内藤信美が焼け残っていた城郭の破却を政府に届出る。
城下の諸門や石垣は、明治八年までに解体され、売却された。
今残る遺跡は、石垣の一部のみである。 」

本丸跡
     天守跡      眺望
本丸跡
天守跡
日本海まで見渡すことができる


村上城へは、JR羽越本線村上駅から車で約5分  
村上城のスタンプは村上市立郷土資料館(9時〜16時 12/29-1/4休み)にある 

所在地:新潟県村上市ニ之町  
JR羽越本線村上駅から車で約5分  
村上城のスタンプは村上市立郷土資料館(9時〜16時 12/29-1/4休み)にある 



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かうんたぁ。