続日本100名城 (129) 龍岡城(たつおかじょう)
龍岡城は松平乗謨により、長野県佐久市田口に幕末に築城された、五芒星形の西洋式城郭である。
龍岡城があるのはJR八ヶ岳高原線龍岡城駅の南東千三百メートル程の龍岡五稜郭と呼ばれるところで、
敷地の大半は佐久市立田口小学校の敷地になっている。
「 文久三年(18639、三河国奥殿藩十一代、松平乗謨(のりかた)は、
従来の本領三河奥殿は四千石で、その狭さから分領である信濃国佐久郡(一万二千石)への藩庁移転を願い出て、
併せて新陣屋五稜郭建設の許可を江戸幕府に申請した。
六月の陣屋絵図の公儀提出により許可が下り、七月には家老出井勘之進に普請奉行を命じた。
西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた松平乗謨は、
新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計し、九月に模型を完成させた。
翌元治元年(1864)三月、田野口村が献上した同村龍岡の地に建設を開始し、
慶応二年(1866)に石垣と土塁が竣工、慶応3年(1867)に城郭内に御殿などが完成した。
田野口とあることから田野口藩に、城名は龍岡城になったことから、
後日、龍岡藩に改名し、ここに大給松平氏の龍岡藩の藩庁が置かれた。 」
龍岡城は北海道函館市の五稜郭と同様、五芒星形の西洋式城郭で、
総面積は五稜郭の半分の約二万坪である。
築城当時、内郭の中央に藩主宅と政庁が置かれ、正門、通用門はそれぞれ東北、東南の凹面に、
また非常門は西北と南南東の凹面に設けられていた。
このほか、藩士の長屋や火薬庫、太鼓楼、歴代藩主の祠堂や稲荷社などがあった。
明治維新により、明治五年(1872)に、建物は解体され、競売された。
廃城後は、城内のほとんどが農地転用され、御台所櫓は農機具倉庫として使用された。
「 明治八年(1875)、御台所櫓には田野口村の尚友学校が移転し、小学校校舎として活用され、
昭和四年(1929)に築城当時とは反対側にあたる現在地に移築された。
堀も埋められたが、昭和の初期に住民により復元された。
昭和九年(1934) に「龍岡城跡」は国の史跡に指定された。 」
石垣は伊那高遠藩から棟梁と石工を招き、周辺の山で産出する溶結凝灰岩を使用している。
所在地:長野県佐久市田口
JR八ヶ岳高原線龍岡城駅から徒歩約20分
佐久市立田口小学校敷地内のため、自由に見学はできないが、休日開放日が設定されている
龍岡城のスタンプは大手門前の「佐久市歴史の里五稜郭であいの館(9.30〜16時、火休)」にある
ここには龍岡城に関する資料が展示されている
戻る(日本100名城表紙)
|