続日本100名城 (128) 要害山城(ようがいやましろ)
要害山城は武田信玄の父、信虎により、躑躅ヶ崎館の北東二キロの要害山に築かれた山城である。
「 武田信虎は永正十六年(1519)、石和の館から躑躅ヶ崎館に居館を移したが、
甲斐国内の統一を果たした翌年の永正十七年(1520)、詰の城として要害城を築いた。
以後、勝頼により新府城に移るまで約六十年間、
防備を主目的とする要害城は居住と政庁の躑躅ヶ崎館と一体になって機能していた。
武田氏滅亡後は徳川方の城番が置かれ、徳川関東移封後は甲府城に入城した豊臣秀吉の家臣、加藤光泰が要害城を修築しているが、
関ヶ原の戦いでも、戦いに使われることもなく、慶長五年(1600)に廃城となった。 」
城がある要害山は、山梨百名山に選定されている標高七百八十メートルの山で、要害城に行くには相川に沿って上る。
登山口には積翆寺温泉、ホテル要害があったが、廃業し、今はやまびこフォルテイサという障害施設になっている。
山を上ること千五百メートルの距離、約四十分〜五十分で本丸跡に到着するが、
途中に「門跡」「竪堀跡」「曲輪」「土塁」「堀切跡」「主郭部」などを説明した立て札がある。
山腹を削って造られた曲輪は段上に設けられていて、虎口の遺構が数ヶ所あり、野面積みの石垣も残っている。
本丸は山頂で、四方を土塁で囲んだ東西七十三メートル、南北二十二メートルの細長い平坦地で、「武田信玄公誕生地」という大きな石碑が建っている。
「 要害城築城の翌年の大永元年(1521)、信虎は駿河今川氏の属将、福島正成の侵攻を受けたが、
懐妊中の信虎夫人はこの城に避難し、嫡子、晴信(信玄)を産んだと伝えられるが、実際は積翆寺で産んだようである。 」
南麓の積翆寺には「機山 武田信玄誕生寺」の石碑が寺前に建ち、
「武田不動尊 信玄公像 毘沙門天」というお堂があり、境内に産湯井戸、産湯天神がある。
所在地:甲府市上積翆寺町
交通:甲府駅北口から山梨交通バス積翆寺行きに乗り、約十四分終点で下車、徒歩30分〜1時間
要害山城のスタンプはJR甲府駅北口広場の甲府市藤村記念館(055−252−2762 9時〜17時、月休)にあり、城跡近くには用意されていない
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