続日本100名城 (127) 新府城(しんぷじょう)
新府城は、武田勝頼により、武田氏館に代わる城として、
七里岩と呼ばれる釜無川と塩川に挟まれた台地の上に築かれた城である。
昭和四十八年(1973)に「新府城跡」として国の史跡に指定された。
「 守護大名の甲斐武田氏は、信玄の時代まで城郭は築かず、
「人は石垣、人は城」の歌のように館で過ごしてきた。
しかし、天正三年(1575)の長篠の合戦で、武田勝頼が、織田徳川連合軍に敗退し、
戦力の大半を失うと、甲斐への侵攻に備えるため、新城の建設に踏み切る。
天正九年(1581)二月、真田昌幸を築城奉行に任じ、築城を開始したが、
三月に高天神城が落城したので、昼夜兼行で工事が進められ、
十二月には、勝頼は躑躅ヶ館から新府城に移り、
家臣達は、心残りしないように住み慣れた屋敷を打ち壊して移転した。
新府城で新年を迎えた天正十年(1582)、木曾義昌が織田信長に通じて反逆すると、
織田信長が甲信侵攻作戦を開始したため、最前線を守っていた信濃勢の中から寝返るものが続出し、
奮戦していた高遠城が落ち、新府城に織田軍が迫ってくると、
同年三月、勝頼は小山田信茂の岩殿城(大月)に移るため、新府城に火を放って落ちていった。
僅か三ヶ月の在城だった。
天正九年(1581)六月、本能寺の変が起き、織田信長は亡くなると、
甲州の領地を巡り徳川氏と北条氏の間で天正壬午の乱が起きる。
徳川家康は、新府城を修復し、本陣とし、能見城など七里岩台上の城砦に布陣した。
同年十月、甲斐は徳川氏が領するとした、徳川、北条同盟が成立すると、
翌年、家康は甲府築城を開始し、新府城は廃城になった。 」
新府城跡はJR中央本線新府駅の西方七百メートル、七里岩と呼ばれる釜無川と塩川に挟まれた台地の上にある。
「 七里岩は八ヶ岳の火砕流によって形成され、
長野県境から韮崎までの釜無川の左岸、約三十キロにも及ぶ帯状の形をした台地で、
塩川の右岸では若御子付近から韮崎まで、約十キロが数十メートルの急崖になっていて、まさに天然の要害である。
新府城は、東西五百五十メートル、南北六百メートル、外堀と本丸との比高差は八十メートルの平山城で、
高さ約二・五メートルの土塁を巡らした城で、石垣は一切使われていない。 」
本丸(本曲輪)には、現在藤武稲荷神社の社殿が建っているが、
東西九十メートル、南北百二十メートルの広さで、周囲に土塁がめぐられていた。
本丸の西側に一段低く二の丸(二の曲輪)があり、馬出しに続く。
本丸の南側はシトミの構え、腰曲輪の下に東の三の丸(東の三の曲輪)と西の三の丸(西の三の曲輪)、帯曲輪で固めていた。
枡形虎口の大手門の南には丸馬出し、三日月堀などの防御施設が設けられていた。
新府城の詳細(訪問記)は、
古城めぐり「新府城」をご覧ください。
所在地:山梨県韮崎市中田町中条上野城山
JR中央本線新府駅から徒歩15分(藤武稲荷神社)
新府城のスタンプは城跡からは離れた韮崎市民俗資料館にある
(韮崎市藤井町南下條786−3 9時〜16時30分 休館日は月曜日、木曜日の午前)
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